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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.2.6] ■■■
[221] 源信物語 [1:インターナショナリズム]
「往生要集」で知られる源信[942-1017年]だが、「南無阿弥陀仏」と唱えるだけの有り難いお坊さんではなく、明らかに、論理の重要性を知るインテリ学僧である。ただ、あくまでも宗教学としての論理ではあろうが。

従って、比叡山に所蔵されていた膨大な漢籍を徹底的に読み尽くしたのは間違いない。仏典に関しては、当代随一の博学の人。
それは、自ら選んだ道であろうが、比叡山入山当初から、後に天台座主になる、師の期待に応えたということでもあろう。学門専心のため、雑務無しの特別扱いだった可能性は極めて高い。

比叡山は、信長による焚書があり、すべての仏典類は灰燼に帰したから、現代ではその面影は全く無いが、その充実ぶりは半端なものではなかった筈。源信はそれを縦横無尽に逍遥していたのだ。

そして、「今昔物語集」編纂者は、そのような姿勢を肯定的にとらえていると見てよいだろう。
自分でも、比叡山の漢籍には相当にお世話になった筈であるし。
だからこその、「今昔物語集」文体とも言えよう。常識人からすれば、これは、漢文の経典類を読みながらの、和文体のメモそのものとも言える訳で。インテリにとっては、一番読み易く、特段、気にせずにスラスラと書ける文体である。

このことは、仏教信仰の基底には、学問あるべしと考えていたと見てもよかろう。

と言っても、学僧を貴んでいるという意味ではない。世渡りのための学僧が多かったせいでもあろうが、南都に見られる枝葉末節的議論を大いに嫌っていたようだ。それに該当しそうな僧は、おそらく、いかに高名でも無視していると思う。
それは、脱学問・実践性重視の姿勢の僧への理解と共感を示す姿勢に繋がる。世の中、非インテリが数的には圧倒的ななのだから、そうした動きは当然と見たと言ってもよいかも。そこからの、学問へのフィードバックを期待したと言えなくもない。

ただ、そうした脱学問の動きと表面上は似ていても、北京で流行った、反学問ポピュリズム的信仰運動には違和感を覚えたに違いない。よく知られる僧でも、「今昔物語集」では取り上げてない理由はそこらにありそうだ。

「今昔物語集」編纂者の心情をそのように見なすと、源信は、一番お眼鏡にかなう僧では。比叡山で知を磨いた姿勢を高く評価しているということ。
だが、それは、編纂者が源信の浄土教に帰依していることを意味している訳ではない。ここが肝要な点。

源信を高く評価する所以は、インターナショナルなものの見方ができ、対象世界を俯瞰的に眺めることができるから。・・・
「今昔物語集」は天竺・震旦・本朝の三本柱で構成されているので、"本朝は、天竺や震旦と並ぶ力ありと誇示している。"と見なされがち。確かに、それぞれの風土はかなり違うが、その記述に力を入れているとは思えない。それよりは、その違いを超越する普遍的なものを感じ取れるように描いたように感じる。つまり、仏道の根は同じと考えながら編纂された書ということ。「酉陽雑俎」同様、インターナショナルな発想から生まれていると見るのが自然であろう。

と言うことで、源信の話を眺めていこうと思う。

まずは年譜だが、以下の通り。
○942年 誕生
 生家 大和葛城當麻寺付近
 父 占(卜)部正親、母 清原氏(2人の姉 念願の男子) 幼名 千菊丸
○948年 7才
 父逝去 遺言が出家
○950年 9才
 旅の僧が賢い子と評価 出家請われる。
 師:良源
○954年 13才
 授戒 法名 源信…止観業・遮那業を学ぶ。
○956年 15才
 天皇に「称讃浄土経」講義
 【"母に手紙と下賜褒美"⇒"母からの返信と返品"】
○963年 22才
 (法相・三論・華厳論争)
○966年
 (良源/慈恵大師 18代天台座主)
○968年
 (東塔・西塔・横川各院房で広学堅義開始)
○971年 30才
 横川 首楞厳院 (良源@定心房)
○973年 32才
 広学竪義 内供奉十禅師
○975年 34才
 東大寺学僧「然、修学院勝算との論争
○978年 37才
 (良源 横川 恵心院建造@経蔵や定心房近辺)
 「因明論疏四相違略註釈」
○42才
 【母への臨終説法】
○985年
 良源示寂
 尋禅[943-990年 藤原師輔十男]19代天台座主
 「往生要集」脱稿
○986〜7年
 「二十五三昧式」
○988年 47才
 二十五三昧会
○990〜995年
霊山院造営
 霊山院釈迦堂…釈迦講
 横川華台院に丈六阿弥陀三尊安置…迎講
○996年 55才
 【"山籠り"】
○1000年 59才
 仁王会 法橋位
○1004年 63才
 権少僧都[1年後辞退]
○1006年 65才
 「一乗要訣」
○1007年 66才
 「観心略要集」…念仏書
○1014年
 「阿弥陀経略記」
○1017年 76才
 【示寂】

もちろん、簡略化された系譜が掲載されている。
  【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳)
  [巻十二#32]横川源信僧都語
 比叡山の横川の源信僧都の生れは大和葛下。
 父は卜部正親で、道心は無かったが心根は正直。
 母は清原氏で、極めて道心が深かった。
 娘は多かったが、息子が産まれず、
 その郡にある高尾寺に参詣し、男の子が欲しいと祈願。
 すると、夢にその寺の住持が出現し玉を賜った。
 すると懐妊した。こうして、誕生となったのである。
 成長していくうち、出家の思いが生まれ、父母に願って出家。
 仏道修業に励んだ。
 年3回、高尾寺に籠って斎戒。
 ある時夢を見た。
  お堂の中の蔵に、大小明暗、様々な鏡があり、
  一人の僧が、曇った鏡を取り源信に渡してくれた。
  「この鏡は小さく雲っています。
   これでは、どうすればよいかわかりません。
   あちらの、大きく明るい鏡を頂戴できませんか?」
  と言ったが、
  「あの大きくて明るい鏡は、お前には合わない。
   おれが相当なのだ。
   速やかに比叡山横川に行き、よく磨くのだ。」
  と言われてしまう。
 そこで目が覚めた。
 横川をよく知らなかったが、夢は信じていた。
 時間が経ち、その夢を忘れてしまっていたが、
 比叡山に上る機会が巡って来た。
 すると、そこには、
 慈恵大僧正が、以前からの知己の如くに待ち受けており、
 弟子として顕密を教授。
 源信は聡明で、学習すると、驚くほどの能力を発揮。
 自宗他宗の顕教に、
 真言密教についてもすべてを習得し、奥義を極めた。
 道心が深く、常に法華経読誦。
 数年のうちに、学僧としての名声が高まり、
 それをお聞き及びになった一条院天皇がお召しになり、
 朝廷にお仕えするため、僧都の位を賜った。
 しかし、仏道を求める心が強く上、名声を捨てる姿勢もあり
 官職を辞し、横川に隠棲したのである。
 そこでは、静謐に過ごし、法華経を読誦の上、念仏を唱え、
 ただひたすら、後世の菩提祈願に精力を傾けていた。
 そして、「一乗要決」を著し、
 「一切衆生皆成仏」の教義を説き、
 「往生要集」を著し、往生極楽を願うべきことを教えたのである。
 すると、夢の中に笑みを浮かべた観音菩薩が出現。
 金の蓮華を賜ったのである。
 さらに、毘沙門天が天蓋を捧げ、傍らにお立ちになっていた。
 尊い事が沢山あったが、年老いて、重い病を長らく患ったが、
 法華経を読誦し、念仏を唱えることを怠ることはなかった。
 そうこうするうち、隣の僧房の老僧が夢を見た。
   空から降臨した金色の僧が出現。
   源信僧都に向かって心をこめて話しかけ。
   源信僧都は伏したままこの僧と語らっていた、
 又、他の人の夢では、
   百千万にのぼる蓮華が僧都が居られる付近に生えて来た。
   そこで、"これは、どの様な蓮華なのですか?"と問うと、
   空から声があり、
   「これは妙音菩薩が現われる時に生ずる蓮華で、
    僧都は、死後、西方浄土に向かうことの霊験である。」と。
 源信僧都はその命が尽きる時に臨んで、
 首楞厳院の優れた学僧や聖人達を集め、
 「今生での対面はこれ限り。
  法文の中で疑問のある箇所があるなら、
  今、それをお出しなされ。」と告げたのである。
 お蔭で、重要な意義について
 疑問があった部分を悟ることができたのである。
 そして、皆、別れを惜しみ、涙を流し、際限なく悲しんだが、
 慶祐阿闍梨一人だけを残し、去ってもらうことに。
 そして、語ったのである。
 「長年の間、私が造ってきた善根を全て極楽に回向し、
  "上品下生"への転生を祈願して来たが、
  今ここに、2人の天童がやって来たばかり。
   "我らは兜率天の弥勒菩薩の御使い。
   聖人は、ひたすら法華経を信奉し、
   深く法華一乗教義を悟られておる。
   この功徳で、兜率天に生まれ変わることになる。
   そこで、聖人を迎えるために参上。"
  と言った。
  そこで、
   "兜率天に生まれ、弥勒菩薩を拝み奉ることは、
   この上ない善根です。
   しかし、長年願っているのは、
   極楽世界に生まれ、阿弥陀仏を拝み奉ること。
   それ故、弥勒菩薩様、どうかお力をお与えになり、
   極楽世界にお送り下さい。
   私は、その極楽世界で弥勒菩薩様を拝み奉ります。
   天童の方々、すぐにお帰りになり、
   どうか、これを弥勒菩薩様に申し上げてください。"
  と答えると、その天童達は帰って行った。」と。
 慶祐阿闍梨はこれを聞いて、尊く思うが、悲しむことこの上なかった。
 それに加え、源信僧都は、
 「近頃、時々だが、観音様がお姿をお見せになる。」
 とも語った。
 慶祐阿闍梨は涙を流し
 「間違い無く、
  極楽にお生まれになるでしょう。」
 とお答えしたのである。
 そうこうするうち、僧都は息を引き取った。
 その時、空に紫雲が棚引き、音楽が聞こえて来た。
 芳香が漂い始め、室内が満たされた。
 時は1017年6月10日丑寅
(3:00am)。享年76。
この最後は、素人にとっては、極めて示唆に富む箇所。

日本の常識は、"地獄 v.s. 極楽『浄土』"だが、天竺や震旦ではおそらくそのような感覚は通用しないということを、思い起こさせてくれるからだ。

「酉陽雑俎」は地獄や浄土を細かく解説してくれていて実に面白いが、極楽『浄土』という固有名詞の1ヶ所を地獄に対比させている訳ではない。地図上には、様々な浄土があるからだ。
マ、そんなことは知識としては知ってはいるものの。・・・薬師如来の東方浄瑠璃浄土は別として、「釈迦如来の霊山浄土⇒盧舎那仏の蓮華蔵世界⇒大日如来の蜜厳浄土」というコンセプトがあるし、阿弥陀如来の西方極楽浄土に対応するものとしての、阿仏の東方妙喜世界がある。脇侍たる観世音菩薩には補陀落浄土も。
十方に無量の世界があり、一世界に一仏という考え方だから、これ以外にいくらでも。
そして、上記の譚では、西域での最重要信仰対象である弥勒菩薩が登場してくる。そして、その浄土である兜率天への転生を断るのだ。
源信僧都は阿弥陀仏一途なのである。
(宗教学的には、「四十華厳経」末尾(巻四十"普賢十種行願")からすると、蓮華蔵世界の結論は阿弥陀仏法門の極楽浄土ということになるそうだ。しかし、これは「大本華厳経」の所説ではないとも。そこに至るまでには380年以上かかったようだ。)

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