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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.2.18] ■■■
[233] 磐田の遠江国分寺
遠江国分寺/金光明四天王護国之寺は、国府がある磐田見付@大之浦に臨む台地に建てられた。
金堂を中心に七重塔・講堂・中門・回廊が配置された伽藍構造(180m x 250m)と推測されている。塔の礎石が発掘されており、国分寺の当時の状況がわかる珍しい遺跡である。

「今昔物語集」に登場する、磐田寺の五重塔とは、この七重塔を指していると思われる。つまり、「今昔物語集」成立時には、遠江国分寺はすでに廃寺に近かったことになる。

正史によれば、聖武天皇の詔は国分寺に七重塔建造とのこと。そんな情報を間違う訳がないから、恣意的な変更といってよいだろう。
詔が出されようが、あくまでも国司の負担での建造だから、実際のところ、多くの地域でなかなか手がつけられていなかった可能性が高い。
そんな状況では、国家としての偉容を示すために七重にする意味などなかろうということで、わざと、五輪塔の地・水・火・風・空と同じ五重にしたのでは。

そもそも、鎮護国家仏教施設は、その目的以外の法事を行う必然性は皆無。そうなると、土着の人々からすれば国分寺とは中央に従わせるためのもの以外のなにものでもない。ただ、国家鎮護の法事の際に、大規模な布施行為が行われるから、地場の人々にとってはそれだけは嬉しいだろうが。

磐田寺の五重塔の話を収録した由縁はここらにありそう。下手をすれば、国分寺を揶揄していると見られてしまう危険な企てだが、「これは引用集でございまして、国分寺とは無関係な伝承と見ております。」と言い逃れることができる仕掛け。

要するに、治めている地の支配権のお墨付きをその一族に与えでもしない限り、ローカルな支配勢力が諾々と国分寺建立に従う理由などどこにもなかろう、というだけのこと。

「今昔物語」編纂者はそこらをお見通しというに過ぎぬ。中央はあくまでも反乱阻止のための国分寺だが、ローカルな人々にとっては磐田寺で結構なのだ。
これって、当たり前では。
  【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳)
  [巻十二#_2]遠江国丹生弟上起塔語
 聖武天皇代のこと。
 遠江の丹生弟上は造塔の願を立てた。
 しかし、公私多忙のため、長い年月かなえられず嘆いていた。
 弟上の妻が63才になった時、予想もしていなかったが
 妊娠し、なにごともなく女の子を産んだ。
 その子は左の手を握ったままなので、
 不自然なので両親は開こうとしたが上手くいかず
 怪しと見て、
 「前例なき高齢出産だから、五体満足とはいくまい。
  これは大いなる恥ではあるものの
  前世からの因縁で生まれて来たのだ。」
 と言うことで、悪しきとして棄てずに
 可愛がって養っていると
 比類なきほどの容姿端正な娘に成長した。
 その児が7才になって、始めて握っていた手を開いた。
 両親が見てみると、そこには仏舎利2粒。
 そこで、人々にこれを知らせ見せたから、
 聞いた人は貴び讃嘆。国司、郡司も貴んだのである。
 その後、財力は無かったが、知恵で物を集め
 丹生弟上は、磐田寺に五重の塔を建ててその仏舎利を安置。
 ついに思いを遂げて供養が行われた。
 その後しばらくして娘は亡くなってしまい、
 両親は恋い悲しんだがいかんともしがたかった。


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