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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.2.19] ■■■
[234] 仏舎利法会
"シャリ"と聞くと、仏教用語ではなく、鮨屋の符牒と思ってしまう不敬者でも、"舎利会"の散華の美しい映像には思わず見入ってしまう。
薄暗い場所でのモノトーンの法事とはえらく違っており、明るく開放的で、いかにも生きる楽しさを伝えるお祭り的雰囲気も感じさせ、現代まで続いているのもそんな点が寄与しているように思う。

「今昔物語集」では、その由緒が記載されているが、注意が必要。
  【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳)
  [巻十二#_9]於比叡山行舎利会語
〇860年、慈覚大師 円仁、比叡山惣持院で舎利会始行。
 震旦より、多くの仏舎利を持ち渡ったのである。
 大勢の僧侶が参集し、音楽が奏じられる。
 開催時期は花の盛り。
 今もって絶えることなき法会である。
(977年)
 慈恵大僧正 良源は、母にも礼拝して欲しいと考え
 吉田寺@斑鳩 恵心僧都源信創建に舎利を奉じて、同じように法会。
〇その後、比叡山座主は
 京中の上中下の女の礼拝機会がないのが残念と考え
 法興院@京極東(藤原兼家が991年に別邸二条院を寺に。)で法会。
 京中の上中下道俗男女に大人気に。
(1024年、院源は)
 祇陀林寺[=祇園精舎]@一条京極 仁康創建に場所を移して舎利会。
 作法ができあがっており、素晴らしい次第に・・・。
  200人を越える僧に参集を請い、四色の法服着用。
  定者二人を先頭に二列で行列でお練り。
  その左右には、唐・高麗の舞人・楽人・菩薩・鳥蝶の童。
  奏楽は魅力的で
  舎利輿の持奉者は、頭に兜、身に錦という出で立ち。
  行列は朱雀大路を登ったが
  左右には桟敷が密集。
  小一条院
(三条天皇皇子敦明親王)・入道殿(藤原道長)の御狭敷も。
  行列の道程には、沢山、宝樹を植え、
  空から色々の花を降らさせ、
  僧の香炉に、種々の香を薫じさせた。
  こうして、舎利は祇陀林寺に安置された。
  そして、荘厳に、極楽を模した儀式・舞楽が行われた。


これ以後、舎利会が定着していったようだ。
  1103年 忠源 東寺
  1146年 覚法法親王 高野山金堂
  1180年 守覚法親王 仁和寺


法会の式次第の書「講式」には、舎利講もあり、源信・覚鑁・貞慶・明恵、等によって、色々と工夫されたようである。おそらく、プログラム規定書を作りたかった訳ではなく、声明的な詞を書き下ろすことに注力したのではあるまいか。
ともあれ、どう見ても、この舎利会は極楽往生信仰の法会であり、天竺で生まれた当初の思想とは大きく異なる。(偶像信仰なき時代は、仏舎利塔/卒塔婆がその役割を果たしていた筈。美しく飾った荘厳な、古代の舎利容器も現存している。本朝でも、當麻寺西塔に白鳳時代の金銀銅の入れ子容器が納入されている。)

本朝での初の舎利会は、鑑真請来の舎利@唐招提寺で行われた筈で、釈尊を偲ぶ法会だったと思われる。

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