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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.2.24] ■■■
[239] 清水寺縁起
清水寺現存の本堂は徳川家光寄進での再建。
1063年以来、何度も焼失⇒再建を繰り返しており、観音霊場として絶大な信仰を集めていたとみて間違いなさそう。
その点でよくわかるのが「枕草子」の評価。
  "さはがしきもの、
   十八日清水に籠りあひたる。
   くらうなりて、まだ火もともさぬほどに、
   外々より人の來集りたる。
   まして遠き所、他國などより家の主ののぼりたる、
   いと騒がし。"
東大路からのいかにも観光地らしきお茶屋・土産物店がぎっしり並ぶ坂道は創建当時からの雰囲気と言えなくもない。

どうしても、坂上田村麻呂が処刑された蝦夷の長阿弖流為の霊を鎮めるために建立したように思いがちだが、寺伝はそういうことではない。
清水寺縁起絵巻@1517年は三巻。 [→(C)NICH e國寶]
 ○上巻…僧賢心/延鎮の発心と坂上田村麻呂との清水寺創建 田村麻呂の蝦夷討伐
  (霊験譚:清水観音両脇侍が老人・老僧に化身して援護)
 ○中巻…蝦夷軍を撃滅し、田村麻呂凱旋
 ○下巻…本尊千手観音の奇瑞霊験譚

「今昔物語集」は一部のみ。
  【本朝仏法部】巻十一本朝 付仏法(仏教渡来〜流布史)
  [巻十一#32]田村将軍始建清水寺語
〇大和高市の八多の郷の小島山寺の僧 賢心は、
 報恩大師
[n.a.-795年]の弟子として修行に励んだ。
 夢のお告げで北へ向かい、淀川で、一筋の金色の水流に遭遇。
 瑞兆と見て、源流を辿ると、そこは新京の東山。
 鬱蒼とした場所で滝があり、心に染みる環境。
 滝の西岸に、70才ほどにみえる修行者の草庵。
 千手観音菩薩を念じ続けており、
 行叡と言い、200才になり、東国へ修行に行くので、
 汝の来訪を待っていた、と。
 そして、この場所にお堂を建立し、林の木で観音造像すべしと。
 奇異な事とはいえ、翁を恋いながら、そこに留まり3年が経った。
〇近衛の将監 大納言坂上田村麻呂
[755-811年]は都構築の命を受け
 右京の人達に伴い、新京の西に居を構えた。
 暇を見つけ、東山に入り、妻のお産の為に鹿狩り。
 屠殺していると、奇異な水の流れ。
 水を飲むと心愉しくなり源流へと進んで滝の下に。
 そこらを徘徊していると、読経が聞こえ
 懺悔の心持になり、神仙と見て、賢心のもとへ。
 そして、賢心は事情を語る。
 田村麻呂は貴いことと、契を結び、深々と拝礼し帰宅。
 三善高子の命婦と呼ばれていた妻は、それを聞くと、
 病治癒のため殺生したのだから、免罪のために
 我が家をお堂として寄進し懺悔しよう、と。
 そこで、天皇にその旨上申したので
 賢心は度牒を賜り、名前も延鎮
[821年没]に。
 さらに、東大寺戒壇院で具足戒を受けた。
 そこで、伽藍が建造され、
 高子の命婦は金色八尺の十一面四十手観音像を造奉。


 《多賀城の歴史》
  724年 多賀城[@塩釜丘陵]設置
  780年 伊治呰麻呂の乱で多賀城焼失
  797年 坂上田村麻呂征夷大将軍任官
  802年 坂上田村麻呂蝦夷平定(阿弖流為/アテルイ降伏)
  802年 胆沢上[@平泉北]設置
  869年 貞観地震の津波で多賀城全壊…溺死者1,000名


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