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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.3.14] ■■■
[258] 下野薬師寺地蔵院
下野薬師寺@鬼怒川右岸は東国仏教の中枢の地位を占める官寺だった。(三戒壇[中央;國分金光明寺/東大寺, 西:観世音寺戒壇院], 東:下野薬師寺])
地蔵院があったと伝わる。

薬師寺跡北西域に地蔵川と溜池(三昧場)があり、池西側の地蔵山と呼ばれる平地山林(中世墓地)には1678年銘の石製地蔵菩薩坐像が置かれているそうだから、その辺りに存在した可能性もあろう。

「今昔物語集」には、その地蔵にまつわる話が収載されている。
  【本朝仏法部】巻十七本朝 付仏法(地蔵菩薩霊験譚)
  [巻十七#30]下野国僧依地蔵助知死期語
 下野薬師寺は初め戒壇が置かれた止事無き寺。
 その僧 堂童子 蔵縁は地蔵に深く帰依し
 日夜寤寐まで、念じ奉っていた。
 30才にもなると、家も豊かになり、
 縁あって子も授かり、繁昌していた。
 そこで、
 親しき人々と一緒にお堂を建立し
 等身大の地蔵像を仏師に作ってもらい安置。
 常に、香・花・灯明を奉て拝んでいた。
 地蔵縁日の24日には盛大に僧供し仏事。
 その夜は地蔵講を開き近隣の道俗を集めて終夜礼拝。
 そして、日頃から、
 「必ずや、24日に極楽往生」と予言していた。
 それを褒める人もいたが、嘲笑する人も。
 そうこうするうち、九十才になったが、
 顔色も良く、元気そのもの。
 力が満ちており、懇ろに礼拝苦行するので、
 奇異なことと思われていた。
 地蔵の縁日902年8月24日のこと。
 遠近の知人を集めて饗宴。
  「これが最期になりました。」
 と言うので、口癖の24日往生かと思われたが、
 その後、地蔵堂に入り合掌し坐したまま示寂。
 翌朝になって、皆、これを知り、
 極楽往生なさった、と。


幼時から、一貫して、地蔵菩薩一途の人であり、地蔵堂を年来念じ奉ることのご利益譚ということになる。

冥界から蘇生含め、地蔵霊験は概ね現世利益。この場合も富裕にして長寿実現ということになるが、それだけではなく、極楽往生支援が加わっている。(地蔵菩薩の利天往生と書いてはいないのである。)
地蔵信仰一途でそこに極楽往生がからむ話はもちろんあるが、臨終時に西方を向いて拝礼するといった記載があるのが普通。
阿弥陀如来、あるいはその脇侍の観音菩薩信仰の重層性が見てとれる訳だ。ところが、この譚ではそれを全く感じさせない。地蔵堂内で息を引き取ったというにすぎないからだ。
おそらく、そこらに注目して採録したのだろう。

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