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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.3.18] ■■■
[262] 天竺伝来釈迦像
嵯峨 清涼寺の御本尊由来の前半部と思しき話が収載されている。
987年請来した像であり、北宋首都開封に安置されていた優填王造立の天竺から運ばれて来た釈迦霊像の摸刻。仏師は張延皎と張延襲@台州開元寺(像内に「瑞像造立記」。)
  【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布)
  [巻六#_5]鳩摩羅焔奉盗仏伝震旦語

先ず、"清凉寺ご紹介"から読み取ったストーリーの方を見ておこう。
東大寺三論宗の僧「然法橋[938-1016年]に随侍入宋した盛算が開宝寺永安院本院@開封で写書した「優王所造栴檀釈迦瑞像歴記」が現存。・・・
○仏母摩耶夫人の利天宮経に説法に昇った時のこと。
 優王や信者達が仏不在の寂しさに耐えかね、
 名工毘首羯摩天に嘱し、
 栴檀の香木で仏の尊容を模した寸分違わぬ尊像を造った。
 戻られた仏は、その像を御覧になり、
 亡き後は自分に替わり済度することになると、自ら御開眼。
○その後、鳩摩羅三蔵がこの像を奉じ、
 ヒマラヤの嶮をこえて亀茲国へ。
 更に、鳩摩羅什によって長安に。
 その後、南朝〜隋〜唐では、楊州開元寺に安置された。
 唐滅亡時は一時南京に移ったが、
 北宋による統一後は、都の開封に。

「然入宋時は、帝室廟寺の啓聖禅院に安置されていた。
そこで、「然は、仏の真容を是非日本に伝えたいと太宗にお願いし、五臓六腑等を胎内に封じ生身の釈迦模像を香木で造像。
夢に仏が現れ日本に渡れと仰せになり、真仏と模像とが交換され「摩頂開眼」に。

一方、「今昔物語集」のストーリーはこんなところ。・・・
 釈尊、摩耶夫人教化の為、利天に昇って、90日。
 優填王、仏を乞ひ奉って、赤栴檀で首羯摩天に像を造らせた。
 実の仏が閻浮提に下りると、
 栴檀の仏は傍らに進み、
 腰を曲げて仏を尊び奉った。
 そこで、釈尊涅槃の後は、栴檀の仏を恭敬供養するようになった。
 聖人鳩摩羅焔はこの仏像を盗み出し、
 仏法が十分に伝播していない震旦に伝えようと考えた。
 鳩摩羅焔は、堪へ難く嶮き道を昼夜兼行で急行。
 仏像はそれを哀れみ、
 昼は鳩摩羅焔に背負われたが、
 夜になると、仏像が鳩摩羅焔を背負って進んだ。
 亀慈国
@タリム盆地北の庫車に入り、
 先は長いので、暫く休息をとることに。
 そこで、能尊王のもとへ。
 王はその趣旨を聞き、貴んだが、
 震旦への道程はまだまだ長いので
 年老い疲れている鳩摩羅焔の挫折を心配した。
 その業は、子に継がせるべきと考え、
 王女と結婚させたのである。
 仏法伝達こそが菩薩行ということで。
 しかし、子は出来なかった。
 原因は鳩摩羅焔の口誦。
    処世界如虚空。如蓮華不著水。
    心清浄超於彼。稽首礼無常尊。
云々
 王女が口をふさぐことで、男子が誕生。
 その名前は、鳩摩羅什。
 鳩摩羅什は仏像震旦伝来の業を継承し、
 震旦に渡し奉った。
 震旦国王、受け取り恭敬供養。国挙げこの仏を崇め奉る事に。
 "羅什三蔵"と呼称され、
 心聡明、智恵明然で仏の如きで、
 数多くの衆生にご利益を与え、
 「法華経」結集を進め、多くの経論を翻訳。

"正教を末世まで学する事は、偏に此の三蔵の御徳也"が〆。

尚、史書では、このようになっている。・・・
  [@「晉書」卷九十五列傳第六十五]
 鳩摩羅什[344-413年]
 父:天竺賓国/カシミールの貴族鳩摩羅焔(宰相を辞し出家)
 母:亀慈国王妹耆婆
  _7才 母出家(説一切有部)
  _9才 母学法(賓国 師:盤頭達多)
  13才 父病没 仏教帰依(師:須利耶蘇摩[大乗])
  20才 受戒@亀慈王宮(最高位具足戒) 師:卑摩羅叉
  40才 出西域 入涼州

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