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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.3.26] ■■■
[270] 鳥辺山
京の葬送地は、遷都以前から、北の蓮台野、西の化野、鴨川を越えた東の鳥部野だったと言われている。鳥辺山山腹の広大な地域。
鳥部氏創建の鳥辺寺があったようだが、826年に焼失と伝わる。未詳らしいが、鳥部野西北の宝皇寺かも。

追剥が出るような随分と物騒な場所だったようである。
  【本朝世俗部】巻二十九本朝 付悪行(盗賊譚 動物譚)
  [巻二十九#22]鳥部寺女値盗人語
 お寺参詣が大好きな人妻がいた。見目麗しく、30才ほど。
 「鳥部寺の賓頭盧は、霊験が素晴らしいそうだ。」ということで、
 お供に女の童を連れ、
 10月20日のお昼時に、妙なる衣装を身に着けて参詣。
 到着し休んでいると、
 少し遅れて、強そうな雑色男が一人参詣にやって来た。
 そして、寺内で、供の女の童は引き寄せられ
 身体を触られるので、愕て泣き出した。
 人気無き野の中なので、女主人は、恐怖におびえた。
 男は女の童を捕まえ、刺し殺すと言い、抜刀し押し当てたので、
 女の童は声も出せず、ただただ着物を脱ぎ捨てるだけ。
 男は着物を取ると、女主人を手で引き寄せた。
 あさましく、怖いが、なす術なし。
 女主人は仏像の後ろに引っ張られ、倒され、言うがままに。
 その後、男は起き上がり、衣を引き剥ぎ
 「哀惜の念で、下の袴は見逃してやる。」と言い
 主従二人の着物を抱え、東の山に走しり去った。
 二人は泣いていたものの、どうにもならない。
 致し方ないので、女の童を清水寺の師僧のもとに行かせた。
 そして、事情を話して、僧の鈍色の衣を一つ借り、
 女の童は僧の紬の衣を借着し、法師一人を副えてもらって
 鳥部寺に戻ってきたのである。
 京へ帰っていく途中、河原に迎えの車がやって来たので
 それに乗って家に返ったのである。

この女主人も、追い剥ぎレイプ男も、素性はわかっているものの、記載しない方針らしい。ただ、世間では広く知られてしまったという。
尚、男の方は、侍で、盗みで牢獄行になったが放免(検非違使庁下級刑吏)になった者。

次は文芸作品調。
  【本朝世俗部】巻三十一本朝 付雑事(奇異/怪異譚 拾遺)
  [巻三十一#_8]移灯火影死女語
 小中将の君と呼ばれる中臈は、心映えも良く、若くて美麗。
 同僚の女房達も可愛い女性と見ていた。
 決めた男はいなかったものの、
 美濃守 藤原隆経朝臣が時々通って来ていた。
 ある時、小中将の君は、
 薄色の衣に、紅の単衣を着て、女御殿に侍っていた。
 夕暮れになり、御灯油に点火して廻っていたところ、
 その灯火のなかに、その姿を見つけたのである。
 その有様も姿も何一つ替わらず、
 口元を覆した目見・額付き・髪の下も寸分違はない。
 女房達は、
 「奇異なほど似た者であること。」
 と言いながら見ていたが、
 そんな場合にどうするか知る年長者もいないため
 集まって興じているうち、燈火を掻落してしまった。
 そのことを、小中将の君に話したところ、
 「賤気で、拙いことよ。
  早く掻き捨てたそうですが、
  延々と見物されるのも恥ずかしいことです。」と。
 その後、
 これを聞いた、経験豊富な人々は、
 「それは特別なこと。
  公達の人にお伝えして、
  掻き落として対処せねば。」と言ったが
 どうにもならず。
 それから20日ほどして、
 小中将の君は、なんということもなく、風邪を引いたと
 2〜3日は局で寝込んでいたが、苦しいということで里へ。
 藤原隆経朝臣は、
 おおっぴらに女御の所へ行こうと思い立ち
 女御殿へ参上したが、
 大盤所の女の童部が、里へお出になっておられると云う。
 そこで、小中将の君の家を尋ねたところ、
 7〜8日の弓月が西に傾いて懸かっており、
 西向きの縁の妻戸に出て来た。
 そこで、妻戸を押し開けて入った。
 暁には所用で行かねばならなかったので、
 一寸、告げて戻ろうと思っていたのだが、
 その姿を見ると、
 何時もよりもしみじみ感が湧いてきた上に
 小中将の君も心細気な様子に思えてきた。
 多少悩んで、返ろうとも思ったが、留まって寝ることに。
 一晩中語り明かして、暁に返らねばならなくなったが
 恋の気分が抜けず後に残して出立したので
 道すがら心残りで家に到着したのだった。
 「気掛かりなので、
  急いで戻るつもりです。」
 と書をしたためて持って行かせた。
 返事が何時来るかと待っていたところ
 持参してきたのでとりあえず見たら
 特別な事は書いてなく、
 ただ、"鳥辺山"とのみ書いてある。
 藤原隆経は哀れに思い
 その返書を懐に挿し入れて肌身に当てて
 仕事に出て行った。
 仕事も終わったので、取り出して眺めると
 大変に弱々しい手で書いてある。
 まだしばらくする事はあったが
 恋しさが募って急いで返った。
 京に着き、とり急ぎ、行ってみると
 家から人が出てきて
 「早々にお亡くなりにられまして、
  鳥辺野に埋葬致しました。」と。
 それを聞かされた藤原隆経朝臣の心中は、
 たとえることもできないほどで
 まさにしかるべしといったところ。


ここまで読んで、余韻に浸らせないようにとの配慮か、譚末に、燈火に姿が映った場合の対処方法が書かれている。
燃え残りが出るまで燈油を燃やしたら、それを当人に。(口に入れるのであろう。)そして、十分にこぎ等の上、忌を謹む必要がある。決して、掻き落として火を止めたりすると、新たな局面を迎えて、死んだりすることになる。

この話、登場人物が注目を浴びていたようではなさそうだし、ストーリー的にもたいした内容とも思われないが、"鳥辺山"の一語が人々の琴線に触れるのだろう。
当時の高貴な人々は、"鳥辺山の歌"に接すると、感動で思わず咽び泣きだったのだろう。・・・
  侍従の大納言の御娘、
  四月九日観隆寺北地
  亡くなり給ひぬなり。
  殿の中将の思し嘆くなる様、
  我がものの悲しき折なれば、
  いみじく哀れなりと聞く。
  上り着きたりし時、
  「これ手本にせよ。」とて、
  この姫君の御手を取らせたりしを、
  「さ夜ふけて寝覚めざりせば。」など書きて、

   「鳥辺山 谷に煙(気振り)の燃え立たば
     儚く見えし 我と知らなむ」  
[「拾遺集」巻二十哀傷#1324]
  と、言ひ知らずをかしげに、
  めでたく書き給へるを見て、
  いとゞ涙を添へまさる。

  [菅原孝標女:「更級日記」1020〜1059年]

  中頃男在りけり。
  女を思ひて、時々通ひけるに、
  男、ある所にて、
  燈火の炎の上に、彼の女の見えければ、
  これは忌むなる物を、火の燃ゆるところを掻き
  落してこそ、 その人に飲ますなれとて、
  紙に包みて、持たりけるほどに、事繁くして、
  紛るゝこと ありければ、忘れて、
  一日二日過ぎて、思ひ出でけるまゝに、行けりければ、
  悩みて程なく、女隠れぬ、と言ひければ、
  いつしか行きて、かの燈火の掻き落したりし物
  を見せでと、
  我が過ちに悲しく覚えて、常なき鬼に一口に喰はれけむ心憂さ、
  足ずり もしつべく、嘆き泣きけるほどに、御覧ぜさせよとにや。
  この御文を見つけて侍とて、
  取り出だしたるを見れば、

    鳥辺山 谷に煙の 見えたらば
     儚く消えし 我と知らなむ

  とぞ書きたりける。
  歌さへ燈火の煙と覚えて、いと悲しく思ひける。ことわりになむ。

  [寂超:「今鏡」1170年 巻十打聞#78敷島]

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