→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.3.30] ■■■ [274] 因幡の地蔵像 【本朝仏法部】巻十七本朝 付仏法(地蔵菩薩霊験譚) ●[巻十七#25]養造地蔵仏師得活人語 お話の場所は、因幡 高草。国府の地は法美だが、古くから開けた地域らしい。 《因幡国》〜〜〜日本海〜〜〜〜〜〜 ____湖山池__港__砂丘 ______↑______巨濃 _気多←高草→邑美・法美 _____↓_↓ ____智頭・八上 __〜〜〜峠〜〜〜〜〜〜〜〜 話としては、国隆寺の地蔵縁起譚なのだが、かなり早くから廃寺になっており、伝地蔵像だけが集落の地蔵堂に安置されていたようだ。 この地は、薬師寺(⇒座光寺@菖蒲浦)の方が有名で、ローカルより中央の因幡堂平等寺で知られている。 それと比べると、どうも今一歩迫力を欠く。 ただ、"國隆寺之地蔵"@槙原村小原(後山上)@八頭佐治として、阿陪恭庵:「因幡志」1734年(430/500)にお話が掲載されているから、地元的には忘れ難い地蔵像のようである。 因幡高草の野坂郷にある国隆寺は前の介"千包"が創建。 その土地に住む老人によるとこんな話がある。 この寺の別当に宿願があり、仏師を呼んで地蔵像を作らせていた。 ところが、妻が不貞。男と出奔し行方知れずに。 別当は狼狽。 探索に精力を注ぎ、造像など念頭になくなってしまった。 施主が居なくなり、仏師達は食べ物も出ず飢餓状態に。 そこで、専任の法師が、善心から、食糧を集め仏師らに与えた。 そのお蔭で、なんとか地蔵像は彫り上がったものの 彩色を前にして、この法師、急な病で死去。 法師の妻子は泣き悲しみ、 納棺はしたものの、葬送せずに、遺体の側に居続けた。 ところが、死んで6日後の未の刻頃、突如、棺が動いた。 開けてみると、法師が蘇生したのである。 水を口に入れると、しばらくして、冥土の話を始めた。 大きな鬼が二人がやって来て、連れていかれた。 広い野を行くと、端厳な姿の小僧が現れ 「鬼共、 この法師を放免せよ。 我は地蔵菩薩なり。」 鬼は跪いて従った。 そして、菩薩は法師に、 「国隆寺で我を造ったが、まだ彩色されていないから 汝が、像を造るように。」と。 ということで、帰途を詳細に教えてくれ こうして帰って来て、生き返ったのだ、と語った。 その後、小財を投入し、 像の彩色を行い、完成させ、供養し奉った。 そして、国隆寺に安置した。 この地域は古くから「お話」が創られて来た。我々が良く知るのは「古事記」の素兎だが、残念ながら、その真意というか、どのような事績の伝承かは見えない。そこを読み解くことで当時の社会風土が見えてくるので、なかなかに面白い「お話」になっているとも言える。 「今昔物語集」編纂者もそんな見方をしたかも。だからこそ、この話を収載した訳である。 実は、京都因幡堂縁起の当人と関係する。 従四位中納言 橘行平[祖父 橘好古, 父 橘敏政]は1005年、因幡国守に。早速に、蔵保管物で、前国司 藤原惟憲と紛糾したようだ。そして、1007年、苛政で愁訴される。そこで、因幡国衙官人 千兼を殺害。[寛弘四年十月二十九条]暗殺ということではなく、因幡氏を滅亡させたのである。 そして、薬師堂本尊を持ち去ったのである。中央では大喝采。ここらは、下手に書くとえらく危ない。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |