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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.4.3] ■■■
[278] 五節舞
田舎者を嫌う殿上人の嫌がらせの話が収載されている。
  【本朝世俗部】巻二十八本朝 付世俗(滑稽譚)
  [巻二十八#_4]尾張守□□五節所語
 無冠が続いていた、古手の受領クラスが
 ようやくにして尾張国守を拝命。

    (受領は、収奪と蓄財に励むのが普通なのに
    真面目一方だったということ。
    貢ぎ物での猟官活動もしなかったのだろう。
    疲弊した国と化したので、
    起用されたと見て間違いなかろう。)

 国政に励み、衰退していた尾張国を復興。
    (私欲がなければ、当たり前の結果である。)
 その功もあって、尾張国守は
 五節の役を仰せつかる。
 尾張の絹・糸・綿が供せら見事な準備。
 とはいえ、殿中から遠ざかっていたので
 風習にはいたって暗く、教えてくれる者もいない。
 宮中の上流階級にとっては
 真面目一方の田舎者の登場は気に喰わぬので
 嘲笑しつくすが
 それではおさまらず虐めの対象に。


当然ながら、時代を示す天皇名は伏字。

話の主体は、この虐めで、細かい話が延々と続く。
「酉陽雑俎」でも、風習を知らぬ身分違いの者の失敗を収載しており、それは面白話にもなる訳だが、この譚で扱う対象はそれとは違い、陰湿な虐め。
現代でも横行しているから、読めば「けしからん」との気分になる。そのため、「今昔物語集」編纂者もそんな観点でこの譚を収載したと考えがち。
しかし、"五節"を考えると、単なる殿上人の生態観察記と考えたほうがよいのではないか。この意味を考えさせ様との意図で。

"五節"は"大嘗祭/新嘗祭"の付属行事。
11月の2度目の丑〜辰の4日間で、5人の舞姫を中心にして行なう。(新嘗の場合は4人)毎日衣替えで、華美な衣装を着用する。もちろん、お供も。
 子…常寧殿五節所で調習
 丑…天皇隣席の帳台試
 寅…御前試
 卯…童女御覧の儀 夜は"大嘗祭/新嘗祭"
 辰…豊明節会
(本番@紫宸殿)
  →「承安五節繪」1830年@(C)NDLデジタルコレクション

その5名の舞姫だが、公卿から2名、殿上人から2名、女御から1名が選ばれる。そのお供は、童女2人、下仕4人、陪従6人等の決まりがある。

具体的な状況は「紫式部日記」第一部 敦成親王誕生記 第一章 寛弘五年(1008年)秋の記が詳しい。
   【一五 十一月二十日丑の日、五節の舞姫、帳台試】
   【一六 二十一日寅の日、五節の舞姫、御前試】
   【一七 二十二日卯の日、五節の舞姫、童女御覧】

当然ながら、「枕草子」[第八十五段]でも、中宮が凝りに凝る様子が描かれている。
宮の五節いださせたまふに、かしづき十二人、こと所には女御御息所の御方の人いだすをば、わるきことにすると聞くを、いかにおぼすにか、宮の御方を十人はいださせ給ふ。いまふたりは、女院、淑景舎の人、やがてはらからどちなり。・・・

担当役になれば、とてつもない費用がかかる訳で、その経済力誇示が主眼と見てよさそう。
もちろん、負担が余りに大きいということで、規模縮小を上申した官もいたようだが全くうけいれられなかったらしい。
摂関政治の時代は、"恭順"を示すための重要な儀式であり、華美ほどよいことになるから、当然の結果と言ってよかろう。

つまり、指名されたら、舞姫が昏倒しかねないほど、細かく面倒な作法に従って多大な労力を費やす必要があり、その上で、できる限り豪勢な宴会になるように注力しなければならないのだ。そこにこそ意味がある訳で。

素人的には、もともとは、大仏開眼供養で催された舞踏が発祥ではないかという気がするが、豊明節会で行うようにしたため、政治状況で意味が逐次変わってしまったのでは。

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