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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.4.11] ■■■
[286] 大安寺中尊丈六釈迦如来像
「酉陽雑俎」には續集卷五/六"寺塔記"(長安仏寺歴訪)が組み込まれているから、「今昔物語集」でも、別巻としてそのような随筆を収録してもよさそうに思うが。今昔談とご教訓という形式になりにくいし、そこまで執筆する余力がなかったということだろう。

・・・ついつい、そんなことを考えてしまうのは、"大安寺中尊丈六釈迦如来像"譚が収載されているから。
この仏像は特別なのである。

それがわかるのが、「七大寺日記」1255年
1106年に大江親通が南都の七大寺と番外的に(唐)招提寺を巡礼した時の記録。 [→(C)奈良国博]
その34年後の1140年の巡礼の記録もあり、そちらは「七大寺巡礼私記」。
紀行随筆とは違って、道中記や寺伝の類は一切書かれていない。つまり、南都仏教の"遺産"を今のうちに拝見しておこうという嗜好。
廃佛の嵐の跡を眺めた「酉陽雑俎」"寺塔記"に一脈通じるところがある作品と言えよう。
著述姿勢にも拘りがあるようで、著者独自の感性に基ずく意見を避けており、できる限り客観性が担保できるように描いている。
もちろん、素晴らしい仏像との評価を下す場合もあるから、主観をまるっきり排している訳ではないが。
例えば、当該仏像にはこんな特徴あり、と書かれている。
 中尊丈六釋迦坐像
 以右足敷下 左足置上 迎接印也
 光中化仏十二体 飛天十二体 須弥炎 多宝塔・・・

[→「七大寺巡礼私記」大安寺24/63 (C)NDLデジタルコレクション]

言うまでもないが、浄土思想一色化が進めば、鎮護仏教下の"青丹よし"の時代を感じさせるものは、南都から一掃されてしまう訳で、堂宇の衰微は隠しようがなかろう。マ、その鎮魂歌のような記録だ。
その前者の記録に、大安寺の本尊釈迦如来像の評価が記載されており、薬師寺の薬師三尊像は圧倒的に素晴らしいが、それは、大安寺の釈迦如来像を除いての話と断言している。
つまり、1140年時点で最高の仏像とはこれしかないと宣言したようなもの。

この像だが、1017年の伽藍焼失時は幸運にも残ったが、1596年の大地震で損壊してしまったようで、現存していない。「今昔物語集」編纂中には存在しているから、編纂者も参詣した筈。
と言っても、それを示唆する話になっている訳ではない。
この仏像の霊験譚の時代背景は、聖武天皇代[在位:724-749年]なのだ。元号で言えば、神亀⇒天平⇒天平感宝の頃。従って、編纂者がどのような気分でこの譚を収載したか想像するのも面白かろう。それを狙って書かれていると考えてもよかろう。・・・
  【本朝仏法部】巻十二本朝 付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳)
  [巻十二#15]貧女依仏助得富貴語
 聖武天皇代。
 平城京の大安寺の西の里に、
 極めて貧乏で食も乏しい女が住んでいた。
 「大安寺の丈六釈迦仏像は
  昔の霊山の生身の釈尊と相好一致。
  化身の姿。
  そんなこともあって、
  衆生が願うとすぐにかなえて下さる。」
 と言われていると聞いて
 その女は、香・花に合わせて燈油を買い求めて
 釈迦仏像の御前に詣でて、仏前に供え奉じた。
 そして、拝礼して仏に申し上げた。
 「我、前世では、幸福の因となる行いはいたしませんでした。
  お蔭で、この世では、貧困の報いを頂戴いたしております。
  仏様、願わくは、
  我を哀れみ、助け給いて、貧しき憂いを免除頂きたく。」
 と祈願。
 これを月日が続く限り止めなかった。
 何時も福をお願いし、花・香・燈明を奉って祈ったのである。
 そのうち、参詣し帰宅後就寝し、翌朝起床すると、
 門の橋の前に、銭四貫が有り、
 「大安寺の大修多羅供のお金。」と記載された札が付いていた。
   (南都大寺で行われる「大小乗一切経律論疏」輪読・講説する際の
    供養及び参画する修多羅衆の予算である。)

 女は大変に恐れ、
 どうしてこんなとこに置いてあるのか分からないし、
 大急ぎで寺に送った。
 寺の僧達は、これを見て、当該錢の蔵を見ると
 封印されたままだったが、怪しいので蔵を開けてみると、
 納めたなかで銭四貫だけが無かった。
 僧侶達は、際限なく怪しんだのである。
 そうこうしている間、
 女は同じように参詣供養、
 又、全く同じことが発生。
 そこで、六宗の学僧達が怪しみ、
   (南都六宗:三論宗, 成実宗, 法相宗, 倶舎宗, 華厳宗, 律宗)
 急いで女を呼んで聞いた。
 「汝、どの様な行を修したのか?」と。
 女は
 「我は、特に修したりはしておりません。
  但し、貧しき身でございます故、
  命を繋ぐ方法さえないのでございます。
  頼みとするものもありませんので、
  この寺の丈六の釈迦仏の御前に、花・香・灯火を捧げ、
  年来の幸福を願っていたのです。」
 と答えた。
 僧達はこれを聞いて、
 「この錢、女は度々得ている。
  つまり、仏が女に下さったのである。
  これを蔵に納めるべきではない。」
 と言って、錢を女に返したのである。
 女は銭四貫を得て、これを元手にして世を渡り、
 大変な財をなした。


これに続く譚。・・・
  [巻十二#16]者依仏助免王難語
 聖武天皇代、727年9月中旬。
 天皇が群臣と共に、大和 添上の山村の山に狩に出た。
   (大安寺/南大寺は添上郡にあった。[平城京左京六条四坊])
 1頭の鹿が、網見の里の百姓の家の中に走って入ってしまい、
 殺され、われてしまった。
 その後、その由を天皇の耳に入り、
 使が派遣されて、鹿をった輩は捕縛さられることに。
 男女10人ほどがその難にあった。
 皆、身は震え、心から慄いてしまい、頼りになるものとて無い。
 「三宝の御加護以外に、この難を助っていただく者なし。」と思い、
 「我等一同が伝へ聞くなかでは、
  大安寺の丈六の釈迦仏像は、人の願いをよく聞き届けて頂けると。
  そういうことなら、我等の難も必ずやお救い下さるだろう。」
 と云うことになり
 使を参詣させて、誦経を行ってもらった。
 さらに、
 「我等が官に参上する途中、
  寺の南門を開け
  我等が礼拝できるようにし
  又、
  我等が刑罸を蒙る時には
  鐘を撞いてその音を聞肥えるようにして欲しいと。」と。
 それに応え、
 寺僧は、この願いを哀れんで、鐘を撞き誦経を行った。
 南門も開門し礼拝できるようにした。
 皆、使に従って参上し、
 獄に閉じ込められるばかりになった、まさにその時、
 にわかに、皇子誕生の報。
 そこで、
 「朝廷の大なる慶賀なり。」
 ということで、天下の大赦。
 そのため、皆、刑罸は与えられず、返され、官禄を賜ったのである。
 そういうことになったため、皆、際限なく歓喜。
 「誠と知った。
  これ大安寺の釈迦のご威光なり。
  誦経の功徳の致せる果。」
 と思って、いよいよ念じ礼拝奉った。


実に不可思議なお話である。
仏教に深く帰依している天皇だが、狩猟を行うのである。仏罰の対象とのそぶりは全く無い。王朝儀式供犠用の鹿狩りは当然視されていたことになろう。
その逃げた獲物とは露知らず、殺して鹿肉を食べた百姓は逮捕されることになるが、それは王権を犯したからで、肉食禁忌破りは一向にかまわないのだ。仏像のご利益はあくまでも"王難"救済。
鎮護仏教の都ではあるが、大安寺ご本尊の、生身の釈尊を感じさせる仏像は、あくまでも民衆を救う側にある訳だ。聖武天皇が開眼に注力した東大寺の盧舎那仏とは違うということ。

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