→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.4.22] ■■■ [297] 東城国と西城国 注目すべきは、この地に、天竺の話を骨子とする「厳島御縁起」が保存されていること。 天竺での伝承事跡が、唐突にも、この地に関係してくるのである。そもそもが地理的に離れた国の間での婚姻悲話交流話であり、それが本邦に繋がるということで、いかにも瀬戸海がインターナショナルな海上交通地であり、厳島はその要所としての信仰地だったことがよくわかる縁起と言えよう。但し、天竺に於ける旅程は全面陸路で、日本には飛んで到来だが。 中世説話・絵巻研究会:「〔資料〕翻刻 厳島御縁起(厳島神社蔵)」駒澤国文17, 1980年] 話はかなり細かくて長い。語り用文体とは思えないが、悲話講談のシナリオ的雰囲気を感じさせる作品である。 要約短文的な「今昔物語集」では、天竺部に同類譚が収載されている。海路だったりと、様々な点で違いがあるものの、同じような翻案作品と考えて間違いないだろう。 小生が面白いと感じたのは、「厳島御縁起」とは、所謂、"本地"縁起だが、それはジャータカ本生譚となんらかわることがないことを教えてくれる点。"××の前生は○○であった。"と釈尊が前世を解説するのと、"お祀りしておりますご本尊の本地は○○でございます。"の違いはなにもない。 【天竺部】巻五天竺 付仏前(釈迦本生譚) ●[巻五#22]東城国皇子善生人通阿就䫂女語 先ず、「厳島御縁起」の粗筋を見ておこう。(尚、何種類かあり細かくは違いがあるらしい。) 天竺東城国の東晋大王の御子雲井戸の天子は、7才で衣冠、15才で即位し善才王に。 法華経書写などされたが、扇に描かれた天下無双の美女に恋してしまった。臣下大臣は心配し、この美女は毘沙門天の妹・吉祥天女であり恋してもどうにもならないということで、捜すと、西域国の天一天王の第三の宮 足曳姫が天下無双の美女と判明。 その西域国へは片道6年往復12年かかるので、五鳥を遣わし文を届けると、返事が寄せられた。 善才王は喜んだが、恋の悩みは酷くなり、会うより外に薬なし状態。 そこで、御座船建造。西に向かって無事渡海できるよう誓願。法華経読誦に阿弥陀名号数万遍口誦。そして、西域国に到着。 そして、足曳宮と契り、伴って帰国。宮中上下国民皆悦ぶ。 足曳宮は辺りが輝くほどの美しさなので、父王の千人の后は妬み呪う。 策略にのせられ、父王は、千人の后の治療には北城国高峯山の人王草が必要ということで、善才王を往復6年かかる地へと派遣する。 善才王が留守になったので、千人の后は讒言し、武士を使って宮を斬首させる。その時懐妊していたので、王子を出産したが、首は千人の后のもとへ届けられたが、乳房は王子を養った。 その後、王子は山神・狐狼野干諸畜類が集まって守護されて育てつことになる。 善才王は薬草を取り持ち帰国。大歓迎されるが、そこに宮は居らず、なにもわからず。しかし、使っていた臣から事情を知らされ、急いで金剛峯に。すると夢幻で殺された足曳宮に出逢い経緯を聞くとともに、かいらい国の不老仙人に頼んで岩の下から骨を取り集め蘇生させてほしいと言われる。 善才王は驚き、よろめき回って前後不覚になったものの、夜明けに念仏の声が聞こえたが、それば王子だったのである。親子は対面し悦び涙々。 二人は白骨を掘り出して衾に包んでかいらい国の不老仙人を訪れるべく75里の道を急いだ。 仙人は人間の通う場所では無いとは言ったが、6年前逝去なので42日の行法を執り行い蘇生させてくれた。そして親子3人は限り無く悦んだ。 仙人は亀と鶴の鏡2面を取り出して足曳宮に与えた。それは投げて落ち着いた先に住むことになる特別な呪具だった。 そして、その鏡は、遥か国を越え、日本国安芸国佐伯郡の村に。 ・・・(後略) 「今昔物語集」の場合は、巻五所収なので釈尊の本生譚の形式の流れになる。細かい点でも、色々違いは生じている。 東城国の明頸演現王の皇子 善生人には妻が無かった。 一方、西城国の王には、 並ぶ者なしという端正美麗な阿就䫂女と云う娘がいた。 それを聞いた善生人は妻にしようと思い、西城国へと出立。 三尺の観音像を造像し、航行中の海難を助け給えと祈願。 大海横断には所要7日で、両国の中間にあるのが舎衛国。 (舎衛国は祇園精舎がある内陸部であり、理解不能。) 無事湊に入ると、お供は返し、独りで行き、15日で到着。 阿就䫂女は喜んで迎え、契を交わす。 そして懐妊。 ただ、継母は面白くなく、善生人は冷遇されることに。 そこで、東城国から財産を持って来ようと出立。 双子を出産し、終尤・明尤と命名。 子供が3才になっても父は帰還しないので、 阿就䫂女は善生人のもとへ向かおうと決意し出立。 しかし、旅の途中で、罹病し死没。 臨終に当たって乞食で生きるように命じたので、 子供はそれを遵守し生き延びていると 善生人が通りかかり、それが子であることがわかって 子供を抱取り父であると伝えた。 そして、悶絶躃地して、草地に散乱した遺骸を抱いたのである。 哭き悲しみ、十柱の賢者を請いて、 20巻の毘盧遮那経を書写供養した上で、 善生人はその地で命を終えた。 さらに、二人の子も続いた。 ここで、本生譚の面目躍如。この部分なくしては、巻五収録に値しないのである。 釈迦仏、其の所を法界三昧と名付て、 (究極的真理の世界での玄理の境地@華嚴經) 其の所にして、昔の善生人は、今の善見菩薩也。 (善見城に住す菩薩行中の帝釈天との意味か。) 昔の阿就䫂女は、今の大吉祥菩薩也。 (吉祥天。多聞天后。) 昔の兄の終尤は、今の多聞天、此れ也。 弟の明尤は、今の持国天、此れ也 尚、"偽経"「大乗毘沙門功徳経」(現存:鎌倉時代書写本@青蓮院吉水蔵)が元ネタらしい。「今昔物語集」編纂者は"偽経"は百も承知の介だろう。そうでなければ、冗談半分の誤謬記載で読者とともに楽しんだりはできまい。 【参考】"天竺物語"内容紹介からママ引用 京都大学文学部国語学国文学研究室[編集]:「京都大学蔵むろまちものがたり〈3〉しほやきぶんしやう・天竺物語・ほうざうびくのさうし」 臨川書店 2002年 ・・・『阿弥陀の本地』として知られる作品であるが、・・・『今昔物語集』に同話があり、さらにその原拠となったと考えられていた日本撰述経典『大乗毘沙門功徳経』が近年発見されたことで有名な物語である。 天竺西城国のせんしゃう太子は、東城国の姫宮あしゆく夫人と結ばれるが、二人は東城国王の怒りに触れ、深山に捨てられる。二人の間にせんくわう、せんしんの二王子が生まれ、太子は妻子を迎えるために自国へと向かう。残された夫人は二人の王子と共に太子を待ちかねて東城国へ旅立つが、途中で病を得て亡くなる。二人の王子は再び東城国を目指し、途中で父の一行に出会い、親子の対面を果たす。夫人の死を知った太子は出家し宝蔵比丘と名乗り、王子たちと共に阿弥陀三尊と現れた。・・・七五調の文が多いのが特徴的である。・・・『天竺物語』は巻末に九相詩を載せる。 ついでながら、出典を記載している岩波版の本文注記では、東城国は虚構の国名で、実在の国でもなく、西城国と一対にして、東西の国であると。もちろん、人名も未詳。 ホホー。 小生は実在国で、これらは仮名と見る。 この"偽経"はソグドで書かれたと推測するからだ。 おそらく、「今昔物語集」編纂者も、「酉陽雑俎」の著者も、口にださないものの、この名称を見ただけでピンと来たに違いない。震旦では、大勢の翻訳胡僧(すでに取り上げたように"康"姓。)が来訪しており、"康居"の交易者や芸能者が大活躍していたからだ。 従って、現代感覚で言えば、東城国と西城国の所在地は、それぞれ、ネパールとレバント/シリアとなるだけのこと。その通称国家名は、東女国と西大女国。言うまでもないが、玄奘:「大唐西域記」に記載されているからだ。 [巻四 婆羅吸摩補羅國]・・・北大雪山中,有蘇伐剌拿瞿呾羅國,(唐言金氏。)出上黄金,故以名焉。東西長,南北狹,即東女國也。世以女為王,因以女稱國。 [巻十一 僧伽羅國]・・・其女船者,泛至波剌斯西,神鬼所魅,産育群女,故今西大女國是也。 ソグドから東女国へは、フェルガナからタリム盆地を経てチベットに行くのは余りに遠く、パミール高原ルートも急峻で危険すぎるから、ガンダーラから舎衛国に入り、北上してアッサム経由となる。特殊な名称なのは、女王であることではなく、女神信仰社会であり一婦多夫制だったからだろう。 一方、地中海側は、カスピ海-黒海ルートもあるが政治的に安定していないステップと砂礫沙漠地域を通過するから、ペルシア沿岸海路を利用していた可能性があろう。ここらとの交流は驚くようなものではない。西側のバクトリアから侵攻してきた、ギリシア文化に染まっているアレキサンダー大王による大遠征でソグドは支配下に置かれたからだ。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |