→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.5.30] ■■■ [335] 興福寺回禄 そして、2018年、301年ぶりに中金堂が再建された。(ご本尊は、1811年造像の釈迦如来坐像。)創建4年後にできたお堂だが、それから都合7回も焼失している。 この寺の火事の多さは群を抜く。と言うより、焼失してもなんとしても再建するという強い意志を感じさせるお寺と言った方が正確なのだが。 《興福寺回禄》 [KEY] ㊎:中金堂炎上 元慶_2年(_878年) 延長_3年(_925年) 寛仁元年(1017年) 永承元年(1046年)㊎[1048年再建]…西里民家の飛火で北円堂を除いて全焼 永承_4年(1051年) 康平_3年(1060年)㊎[1067年再建] 嘉保_3年(1096年)㊎[1103年再建] 治承_4年(1180年)㊎[1194年再建]…全山焼亡(平清盛が重衡に南都進攻を下知) 建治_3年(1277年)㊎[1300年再建]…落雷火災 嘉暦_2年(1327年)㊎[1399年再建] 文和_5年@北朝/正平11年@南朝(1356年)…落雷火災 応永18年(1411年) 永禄10年(1567年) 享保_2年(1717年)㊎[1819年仮再建, 2018年再建]…近世最大級の火災 1046年の罹災の際は、近江、丹波、播磨国、美作、備中、讃岐、伊予が費用を分担し1年3ヶ月で再建。 その辺りの話が収載されている。 【本朝仏法部】巻十二本朝付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳) ●[巻十二#21]山階寺焼更建立間語 ○大織冠(藤原鎌足)は子孫の為に山階寺を造営。 先ずは、丈六の釈迦菩薩と脇侍の二菩薩を造像。 北山階の家に堂を建てて安置した。 天智天皇の粟津都の時代である。 御子淡海公の代になり、現在の地に移設。 場所は替わったが、今も、山階寺と呼ばれている。 創建後300年余りの、1046年12月24日夜焼失。 しかし、藤原氏長者殿 関白左大臣(藤原頼通)が再建。 ○この地は、他より、地勢的に亀甲の様に高いので、 井戸を掘っても水が出ない。 そこで、春日野から流出する水(佐保川)を寺内に灌漑。 諸々の房舎に流し入れて、寺僧が使用していた。 造成したのは、 金堂と廻廊、中門、南大門、北の講堂、鐘楼、経蔵、 西の西金堂、南の南円堂、東の東金堂、食堂、細殿、 北室の上級僧用僧房、西室、東室、中室。 それぞれに大小の房があり、 数多くの房舎の壁を塗ることになり、 国々から人夫が数多く集められた。 その工事のために水を汲むのだが、 場所的に2〜3町もの距離があり、遠くなので、 水不足で壁工事が遅れていた。 采配する者も、嘆くだけで力も及ばず。 ところが、夏期だったので、夕立が降って、 講堂の西の庭に少し窪んだ場所があり、 そこに水溜りが少しできた。 そこで、壁塗人夫達は、寄って行き壁土に混ぜようと、 汲んだのだが、いくら汲めども水が尽きることがない。 怪しと思い、少し掘ってみると、底から水が湧き出してきた。 奇異ということで、2〜3尺四方、深さ一尺ほど掘ってみると、 正に井戸なのであった。 ここから大量に汲んで、壁材料に使ったが 水が尽きることはなかった。 お蔭で、この井戸水で多くの壁を塗ることができ、 遠く迄水汲みをしていた時より簡単に済んでしまった。 これを見た寺僧達は、「しかるべくして湧出した水である。」と。 そこで、石畳を敷き、屋根を建造し、井戸を覆った。 現在も、水が出るので、稀有なことの一つとされている。 ○そうして2年間で造営し、堂舎も完成。 3年3月2日に 長者・公卿已下を率いて供養の法事。 導師は三井寺の明尊大僧正。僧500人を招請。 音楽を奏で、専心されたのである。 その日の寅時、 ご本尊仏を渡そうというのに、雨模様で、空は陰って暗く 時もわからないほど。 陰陽師安倍時親は 「空が陰って星が見えないが、 何をしるしにして時を測ろうか。 これではどうにもならない。」と。 そうこうするうち、風も吹かないのに、 御堂の上にあった雲が、方4〜5丈程晴れ、 七星が明らかに見えるようになった。 そこで、時が寅二つとわかり、 喜んで仏にお渡り頂くことに。 空は、星を見せた後、すぐにもとのように陰ってしまった。 これも希有なことの一つ。 ○ご本尊に御渡り頂き、天蓋を吊るす段になった。 仏師定朝が 「天蓋は大きな物なので、 鈎金を打ち付けるために、 編入天井に、横幅約1尺9寸で長さ2丈5尺の材木を 3本渡しておくべきだった。 ついつい忘れてしまい、申し上げずにいた。 どうすべきだろうか。 そんな材木を上げるには、 麻柱を結んで足場を作り、壁を所々壊す必要がある。 そうなると、多くの物が損じてしまい 今日の供養にするようなことではない。 これは、極めて大事だ。」と言った。 それぞれ、口々に罵りあっていたが 堂内の間を造っている大工の吉忠がそれを聞き、 「我、間を造作していた折、 梁の上に材木を上げ過ぎてしまい、 1尺8寸材の3丈モノを置いて忘れておりました。 勘当されるかも知れぬということで、 その事を行事役にも言わずおりました。 あの木梁の上にあるのでございます。 必ずや、天蓋を鈎る所に当たっている筈です。」 定朝はこれを聞いて喜び 小仏師を登らせ、材木の置かれた様子を見分させた。 戻って来て言うには、 「まことに、その材木は天蓋を釣るのに最適な場所にあり 微塵も直す必要がありません。」と。 と言うことで、登って、釣金を打ち付け、 露ほども計画と違うことはなかった。 これも希有なことの一つ。 この譚、秀逸。 現代でも難しそうな超短期間で再建を果たしたのだが、それをどう見るかだ。 藤原頼通の政治的力量あるいは、仏道帰依の真摯さを描いてもよいが、この譚はそこに焦点がある訳ではない。もちろん、瑞兆が現れたという話にはなっているものの、常識的に読めば、奇跡というような事象ではないからだ。 ○奈良盆地内高台の地質を考えれば、用水を引き入れ、豪雨が降れば、ある程度、浅井戸が機能するもの。 ○雨続きの日が続いて、明日の遠足の日だけは晴れますようにと願って、子供が照る照る坊主に願い、それがかなうようなレベル。現代でも、朝から小雨模様の日だったのに、皆が待ち望むイベントの数時間だけ快晴になることがあり、その不思議さに心躍る気分など珍しくない。虹まで出現したりして、これぞ瑞兆となる訳だ。 ○大工の質の高さは驚くべきこと。定朝が指示を忘れたことをふと思い出し青くなった訳で、工程を差配する行事役もゾーとしたような事件だが、なんの問題もなかったのである。要するに、現場の大工は指示などなくとも、知らん顔をして、必要な造作はすべて勝手に造っていたのである。職人だから、それ位のことは百も承知。お偉方の指示忘れを"偉そうに"現場が指摘し、それでなくともバタバタしているところに、ゴタゴタを持ち込むのを避けただけに過ぎまい。 そして、皆が、この困難をどう解決したものかと頭を抱えているところに、これは自分のミスですが、たまたま造作をしてしまいましたと、皆がわかるような嘘を言うことで、万事丸く収まったのである。 突貫工事で、大工や左官を初めとして、皆、苦闘の連続だった訳だが、なんとか完成し、とどこおりなく供養の法事ができたので、皆、感慨一入の様子が垣間見えるお話になっている。宴会では、あの時は、本当にどうしようかと思ったぜ、という会話が大いに弾んだであろう。 大工としてとか、左官として、指示に従い働きに来たという気分ではなく、山階寺再建の仕事の一角を担ったとの高揚した気分が伝わってくる書き方と言えよう。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |