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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.5.31] ■■■
[336] 紀伊水道漂流
殺生禁忌とからんではいるものの、そこに重点がある訳ではなく、一番シンプルな釈迦如来への信仰の原典が描かれている譚を見ておこう。
ご教訓は、
 海に入て日来漂ふと云へども、
 遂に命を生き身を存する事は、
 此れ偏に釈迦如来を念じ奉れる広大の恩徳也。

そして、
 人、若し難に値はむ時は、
 心を静めて念ひを専にして仏を念じ奉らば、
 必ず其の利益は有るべき也。


  【本朝仏法部】巻十二本朝付仏法(斎会の縁起/功徳 仏像・仏典の功徳)
  [巻十二#14]紀伊国漂海依仏助存命語
  ⇒景戒:「日本国現報善悪霊異記」下25 漂流大海敬称尺迦仏名得全命縁
 白壁の天皇代。[=光仁天皇 在位:770-781年]
 紀伊日高
(@紀伊水道和歌山県側)の紀麿は
 因果を本心から全く信じておらず、三宝も敬うことがなかった。
 年来、海辺に住んで、網の漁猟を業とし、日々の生活を送っていた。
 使用人は2人。
 安諦郡吉備郷の紀の臣馬養と、海部郡浜中郷の中臣の連祖父麿。
  
固有名称にはなにか示唆するところがありそう。
 紀麿に従い働いていたが、一年中、昼夜使われて疲れ果てていたが
 ともあれ、網を持って海に出て、網を曳いて魚を捕獲する仕事だった。
 そうこうするうち、775年6月16日のこと。
 大風、大雨で高潮となり、
 河川から大小の諸々の樹木が沢山流れ下って来た。
 その時、紀麿は馬養・祖父麿を従え、流木を集めさせたのである。
 主人の命令に従い、河に臨む場所で、筏を編成し、
 それに乗って下って行ったのだが、
 河の水流は極めて大きく荒れており、
 瞬く間に筏を編んだ縄が切れ、筏が解けてしまった。
 そこで、二人共、海に押出されてしまった。
 そして、それぞれ一本の木に捕まって乗り、海上を漂流することに。
 と言っても、互に相手の状況を知る由もない。
 長期に渡って漂流することになり、陸に着くようなこともなさそうで、
 ついに死ぬことになると、歎き悲しみ、
 声を挙げ、

  「釈迦牟尼仏、我れを助け給へ」
 と念じて叫ぶが、
 そんな場所で助けにくる人がいる訳もない。
 そんな状態で5日間過ぎ、
 飲食も無い状態なので、力も出ないし目も見えなくなって来た。
 ついに、東西の方向感覚も失われてしまった。
 すると、五日目の夕方、祖父麿は、思いがけずも
 淡路国の南面、田野の浦と云ふ所に漂着。
  
(出発地には和歌の浦に田野があるが、淡路にはこの地名はないようだ。
   「霊異記」では、淡路の郡名に無い図南郡(南西)田野浦(田町野)と。
   淡路島南部の三原郡野田のことか。
   藻塩作りの塩田がある場所としての地名なのだろう。)

 そこは、塩焼く海人の住む地域だった。
 馬養も。同じように、6日目の寅卯の時頃に、同じ場所に漂着した。
 住人は、彼等を見て、どうしたのか尋ねるが、
 すぐには言葉が通わなかった。
 しばらくして、事情を話すと、海人達は哀れんで助けてくれ、
 そのうち力が回復して来て平常の状態に。
 国司が赴任していたので、このことを上申すると、二人は呼ばれた。
 国司は会うと、悲しんで、粮を与へてくれ、養われることに。
 祖父麿は歎き
 「我、年来、殺生の人に随って、とてつもなく罪を造って来た。
  今、再び戻てば、殺生の業を続けてしまうことになる。
  それなら、我は、この国に留まり、もう戻るつもりはない。」と言い、
 国分寺に行き、寺僧の徒として住することに。
 一方、馬養は妻子が恋しく、、2月後に元の所に戻った。
 妻子はその姿を見て、驚き怪しんだ。
 「汝は海に入って溺死したと見て、
  我等は、四十九日の法要を行った。
  死んでから訪れたのか。
  どうやって、生き返ってこれたのだ。
  もしかすると、これは夢かも。
  そうなると、魂渡来ということかも。」と。
 馬養は、妻子に一部始終を語り、
 「我は、汝等が恋しいが故に戻って来た。
  祖父は殺生を止めるということで、淡路に留まり
  淡路国分寺に住し、仏道修行することに。
  我も又。然るべく、仏道に入ろうと思う。」と。
 妻子、これを聞いて、悲しみ際限なきほど喜んだのであった。
 その後、馬養は、厭世の気分が高まり、発心し入山、仏道修行。
 これを見聞した人達は、「奇異の事だ。」と語り合った。


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