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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.7.1] ■■■
[367] 伊勢大輔夫往生譚
小倉百人一首の歌人で知られる伊勢大輔[989-1060]は、中古三十六歌仙・女房三十六歌仙に選ばれており、勅撰集歌人輩出の家系なので六代相伝の歌人と呼ばれている。
1008年、上東門院[中宮彰子]女房に。
その後、高階成順[n.a.-1040年]の妻となり、3人の娘(康資王母、筑前乳母、源兼俊母)を得る。
高階成順は筑前守退官後帰京し、1031年に出家。1040年逝去。
その頃は、有名人だったのは間違いなかろう。

「今昔物語集」に、この高階成順は往生譚に登場するものの、そこでは妻のことが一切触れられていない。
  【本朝仏法部】巻十五本朝 付仏法(僧侶俗人の往生譚)
  [巻十五#35]高階成順入道往生語
 伊予前司明順の子、高階成順は、
 若くして蔵人任官。
 式部の労が認められ筑前の守に赴任。
 もともと心根が柔軟で、媚び諂うような人でなく
 若い時から道心も深かったので
 日夜法華経を読誦し、阿弥陀大呪を受持。
 ただただ仏法帰依のお方。
 任地より帰京後、さらに道心が高まり出家を決意。
 父母の許しは出なかったので、説得に努めるも
 制止され続けた。
 しかし、後世菩提を願う故、決断し、剃髪出家。
 受戒し乗蓮となり、修行に努めた。
 住居を仏堂とし、仏像・法文を安置し
 天台・法相の智僧を招請し、長日に渡り法華経講説開催。
 講座は必ず聴聞。その功徳を貴んだのである。
 講では、阿弥陀絵像一躯・法花経一部・小阿弥陀経一巻を供養し
 講筵後は、法華経の貴い抄文を書き出し
 声が素晴らしい僧を集めて、声を揃え読誦させ
 仏を讃嘆奉った。
 さらに、必ず、阿弥陀経読誦をさせ行道し、念仏三昧。
 このような善根を8年以上続けたので、
 講筵には、京中の貴賤男女が結縁を求め集って来ていた。
 そのうち入道は悪瘡を患い逝去。
 臨終時は、心も乱れることなく、阿弥陀念仏口唱。
 その後、
 乗蓮入道が船に乗って、西方を目指して行く夢を見た人がでた。
 それによると、蓮花を踏み台にして雲を通り越して
 空を昇って行ったという。


極めて凡庸に映るお話だが、伊勢大輔の歌を知っているからだろう。余計なことを書かない方が、読者の機微に触れるとの判断と思われる。反王朝サロンのムードの社会に突入していたこともありそうだし。

〇讀人志らず
  高階成順世をそむき侍りけるに 麻の衣を人の許よりおこせ侍るとて

  今日[京、極み]としも 思ひやはせし 麻[浅][心の被覆]
  涙の玉の かゝるべしとは
    …"衣の裏の玉"とは法華七喩@五百弟子受記品
〇かえし 伊勢大輔
  思ふにも いふにも餘る 事なれや
  衣の玉の あらはるゝ日は
     「後拾遺集」巻十七雑三#1027/1028

〇高階成順、石山に籠もりて、久しく音し侍べらざりければ、
  海松布[見る目/女]こそ 近江[逢う身]の海[憂み]に 潟[難]からめ
  吹きだに通へ 志賀@琵琶湖西南岸[至賀]の浦[(心)裏]
     「後拾遺集」巻十三恋三#717

一周忌法事に想いはつのる。
〇成順におくれ侍りて、又の年、はてのわざし侍りけるに
  別れにし その日(命日)ばかりは 帰りきて
  行きも帰らぬ[生き還らぬ] 人ぞ恋しき
     「後拾遺集」巻十哀傷#585

そして、伊勢大輔も出家。
〇「伊勢大輔集」#43
  さまざまの 色をば捨てし 身なれども
  菊に心を うつろはすかな

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