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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.7.18] ■■■
[384] 震旦の藥師如來信仰
普通に考えれば疑問を覚える事であっても、答えはどうせわからぬから、考える必要なしという姿勢は"実践的"とされるのが、我々が住んでいる社会だが、「今昔物語集」編纂者はそんな流れにママ乗るような人ではなさそう。そう感じさせるのが、【震旦部】での薬師仏と薬師経の話を6ッも収録している点。
【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布)📖「三寶感應要略」引用集
<_1-10 史>
<11-30 像>
  《21-24 薬師仏》
  [巻六#21] 震旦温州司馬造薬師像得活
  ⇒「三寶感應要略」上28州司馬家室親屬一日之中造像藥師七感應
  [巻六#22] 震旦貧女銭供養薬師像得富
  ⇒「三寶感應要略」上24貧人以一文銅錢供藥師像得富貴感應
  [巻六#23] 震旦州女依薬師仏助得平産
  ⇒「三寶感應要略」上27藥師如來救難産苦感應
  [巻六#24] 震旦夏侯均造薬師像得活
  ⇒「三寶感應要略」上26夏侯均造藥師形像免罪感應
<31-48 経>
  《46-47薬師経》
  [巻六#46] 震旦張謝敷依薬師経力除病
  ⇒「三寶感應要略」中32唐張謝敷誦藥師經除病感應
  [巻六#47] 震旦張李通書写薬師経延命
  ⇒「三寶感應要略」中33唐張李通書寫藥師經延壽感應

それがナンナンダと言われるかも知れぬが、【今朝仏法部】を見れば、法華経を主軸にした設定にしているから、その対比でみてしまうと、ここが目立つことになるということ。

そこで、どうしても気になってくるのだ。

「法華経」では薬王菩薩は登場するの、に藥師如來の記述が無いようだから。
もちろん、以下の経典や儀軌で、藥師如來を薬王菩薩と呼ぶことはない。
帛尸梨蜜多羅[譯]:灌頂經卷十二:佛説灌頂拔除過罪生死得度經」317-322年
慧簡[譯]:佚失 457年
達摩笈多[譯]:「佛説藥師如來本願經」615年
玄奘[譯]:「藥師琉璃光如來本願功コ經」650年
義淨[譯]:「藥師琉璃光七佛本願功コ經」707年
一行[撰]:「藥師琉璃光如來消災除難念誦儀軌」
金剛智[譯]:「藥師如來觀行儀軌法」
不空[譯]:「藥師如來念誦儀軌」

この薬王菩薩だが、名称からすれば衆生を病苦から救う役割を担っている筈である。
にもかかわらず、そのような菩薩であることを示唆する記述は「法華経」には見つからない。主人公として登場する"薬王菩薩品""妙荘厳王本事品"では法華経の教化者だし、他の品では、単に告げるような役割に映る。
言うまでもないが、薬王菩薩が病苦から救う話が収載されているのは別な経典なのだ。

ココだけ見て、普通に考えれば、藥師如來と薬王菩薩を同一と見なせる証拠無しということになる。しかし、一般的には、同一とされている。そうでないとすれば、最澄が、薬師如来をご本尊として比叡山に安置する筈があるまいということだろう。しかも、それは病苦に対処するために安置された訳ではないから、薬師如来より、法華経の薬王菩薩の役割に近い。

と言っても、比叡山の像は菩薩ではないし、震旦に於ける薬師如来の像形の特徴からすれば、どう見ても病苦対処の霊験祈願を示している。とはいえ、「今昔物語集」収録譚には、明らかに病苦の類には該当しない話もあるが。
右手持物:【蔵】訶梨勒果/ミロバラン
     【漢】無[施無畏印 or 与願印]⇒錫杖
左手持物:【蔵】盛滿甘露
     【漢】藥壺⇒藥

こうなると、考えられることは、東の浄土を比叡山に、ということ位。

だが、なんとなく流れはわかる。
「酉陽雑俎」を読むと、病気治療には、地位は低いものの医師に診断を仰ぐことが重要であり、その上で薬餌療法すべしとの見方が提起されているからだ。その薬の知識としては、渡来僧と仙人修行的な道士から得ているようで、特に、僧は植物学的分野の造詣が深く、頼るに値すると見ており、現実に山野から植物等を採取する場合は、道士や山岳修行の僧の力を借りていたようだ。
このことは、唐代知識人階層では、薬師如来像への祈願の姿勢が変わってきたと言ってよいのでは。
最澄は、その辺りを理解していたと考えるのが自然だろう。


 温州の司馬、重病を患い、死ぬと嘆くのみ。
 親族・従者も集合し、悲しみ嘆くなかで死去。
 蘇生させようと、1日で7体の薬師像を造像し
 法の通りに供養。
 翌日、司馬生き返り、皆、歓喜。
 その体験を聞く。
  3人の冥官が来て捕縄され暗い道を進んだ。
  城中に至り、高座に玉冠の神が列席。
  前庭には数千の枷された人々。
  王に善行の有無を問われ、まだだと答えると、地獄行と言われた。
  ところが、突如、
  汝の親族・奴婢が七仏像を造ったから、人間界に還れと。


 辺土の貧女、寡婦で一塵の貯えも無いが、
 一文銅銭だけが手許に有った。
 銭を一生の間の資粮とすべきではないから
 仏像供養に充てようと考え、
 お寺を参詣。霊験ある薬師の御前にその銭を供養した。
 帰宅後7日目のこと。
 隣の里の富人が妻を突然亡くし、後妻を探した。
 しかし、思い通りにはいかず、薬師霊像に参詣し祈願。
 その夜の夢に僧が登場し、隣の里の貧女を妻とすべしと告げられた。
 夢から覚め、早速に娶ろうと訪れるものの
 貧くして、承ることは無理と言われたが
 仏がお示しになったことと語り夫婦に。
 その後、富貴は続き、三男二女を得た。


 州に住む懐妊した女性、十二月になっても出産できず、
 身体がれ、激しく痛み悩み、声を挙げて泣き叫ぶまでに。
 その時、僧 邁公がやって来て、薬師仏の御名を唱へ奉るべきと教えた。
 そこで、それに従っていると、
 夢に仏が出現し、苦から救うと。
 覚めて後、さらに信仰を深め御名を唱へ奉り続けていると、
 次第に、苦しみ漸減し安息できるようになり、男子出産。


 唐代。
 勇州の夏の侯均、顕慶二年に、重病を患い、
 四十日以上辛苦悩乱し悶絶死。
 冥途に到着すると、罪を勘案し、牛に転生させられることに。
 侯均、すぐに訴えた。
 「我、昔、師から受戒。その上、薬師経受持。
  さらに、薬師の形像を造り奉った。
  我には、何の過も無いのに、牛の身と成って苦を受けるのか。」と。
  その様な陳述で24日たった。
 勘案するに、申す通りなので、免罪になり、還された。
 蘇生した侯均はこの体験を語った。



 唐代。
 謝敷は罹病し、とてつもなく辛苦悩乱。
 妻は衆僧招請。焼香、散華、七日七夜薬師経を転読。
 謝敷は経巻で身体を覆われる夢を見て
 覚めると、平癒していた。
 ・・・「〇〇〇〇経其耳 衆病悉除」


 唐代。
 張李通は、27才になった。
 相師の見立てによると、
 短命で、せいぜい生きて31才迄とのこと。
 これを聞いて、邁公に相談。
 玄奘三蔵訳「薬師経」1巻を自ら書写。
 そのご利益で相師の見立てが変わり
 突然、寿命が30年延びた。


ついでながら、天竺の薬師仏霊験も収載されているので見ておこう。譚名から、薬師の名称を削除することで、目立たないようにしている。もちろん、病苦からの救済話ではない。
  【天竺部】巻四天竺 付仏後(釈迦入滅後の仏弟子活動)
《_1-15 弟子》
《16-22 仏像経典霊験》
《23-27 後代比丘》
《28-30 仏法浸透》
《31-33 合理的対処》
《34-35 仏法田夫に浸透》
《36-41 諸仏霊験》
  --- 《薬師仏》 ---

 [巻四#38] 天竺貧人得富貴語
  非濁[n.a.-1063年][撰述]:「三寶感應要略」上23 昔一貴姓祈請藥師靈像得富貴感應
 身分は高かったが極貧で
 生きて行けるかというほどの人がいた。
 物乞いでどうやら命を保っていたが
 門も閉ざされ、寄せ付けないようにされてしまい
 歎き悲しむだけ。
 そこで、霊験ある薬師の寺に参詣。
 心を尽くし仏を廻り奉って、前世の悪業を懺悔。
 断食も5日間。
 仏前で合掌していた時のこと。
 夢を見た。
  美麗荘厳な小さい比丘出現し、
  宿業が滅したので、富が得られる。
  両親の旧宅に行くように、とお告げがあった。
 早速、従ったものの、
 家の壁は崩れ、梁だけで、材木も腐っていて
 廃墟で住むような場所ではなかった。
 ところが、杖で地を掘ってみると、財宝があった。
 しばらくは、このお蔭で生活することができた。
 そうこうするうち、財宝が次々と見つかり、
 1年後には、富貴の人そのものに。
 もともと、父母の家は富裕だったので
 その蓄財を得ることができたのである。


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