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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.7.29] ■■■
[395] 癘遷所
🏥「四天王寺御手院縁起」によれば、593年、四箇院制(敬田院、施薬院、療病院、悲田院)で創建されたとされているそうだ。創建607年の法隆寺にはそのようなコンセプトは導入されていないから、療病院等の始まりはずっと後年の可能性もあるが、それを確かめる術はない。
光明皇后が悲田院・施薬院を、723年、興福寺に創設との記録はよく知られるが、小生は、官立化した学僧の拠点に設立したところがミソと読む。
非官の行基的な大衆社会活動とは一線を画した動きと考える訳である。

そう考えるのは、療病院の様な施設は、必ずしも仏教的慈愛から生まれたものとは言えないからである。震旦での始まりは、反仏教の始皇帝の秦朝が設けた痲瘋病人収容の"癘遷所"だから。
その辺りを、「今昔物語集」編纂者はよく理解していそう。

本朝では、療病院は廃れて行くが、それは大衆化とは真逆の道を歩んだからだろう。特権を認められた人々のための施設化せざるを得ないからだ。
そんなことをあからさまに書く訳にはいかないから、大衆化とはどういうことか、わかり易く示した譚の収録が必要となる訳だ。
現代的に言えば、それは、教化活動の根底に流れる慈愛を語ったものとなろう。
  【震旦部】巻七震旦 付仏法(大般若経・法華経の功徳/霊験譚)
  [巻七#25]震旦絳州僧徹誦法花経臨終現瑞相語
  ⇒「冥報記」上三 釋僧徹
 絳州(@山西聞耳)の僧徹は
 高宗
[在位:649-683年]代の人で
 幼少時に出家し、心根が慈悲深く、もっぱら仏法修行。
 人を大層哀れむ性情の僧だが。
 孫山の西の隈の、樹木が繁茂する地に、お堂を造営。
 そこを栖としており、皆が優れた地と言った。
 そんな生活だが、栖から出て、遊行することも。
 すると、山の間に、土穴を見つけた。
 そこには、ハンセン病者が一人で居り、
 瘡身状態で、臭気芬々。近付くことも難しい。
 ところが、その病人は、僧徹が通り過ぎのるを見て、
 呼び止めて、食を願い求めた。
 僧徹、哀れみ、穴から呼び出して、食を与え、語りかけた。
 「汝を、我が栖に連れて行き、養なおうと思うが、どうかね。」と。
 病人大喜び。
 ということで、
 病人を寺に引き連れ、土に穴を掘って住居にし
 衣食を与へて養うように。
 そして、法花経を教えて、読誦させた。
 病人は、文字を識らない上に、心も鈍いので、
 受修は困難を極めたが、
 心をこめて文句を一つづつ、力を費やし、
 怠たりなく教えたので、
 病人は、法花経の半分まで習い終えるまでに。
 その時、病人の夢に人が出て来て語ったのである。
 「我に、此の経を教えるように。
  我は、悟ったので、五・六巻を読誦するのだ。」と。
   
(薬草喩品・授記品)
 そこで、夢から覚めた。
 我が身を見てみると、瘡がすべて治癒していた。
 「これは、もっぱら、法花経の威力である。」と信じ、
 実に奇異で貴いことと考えたのである。
 その後、ついに、一部を読も終えることができ、
 そうすると、鬚も眉も、皆、元のように生えて来た。
 その後は、今度は、自から人の病を療する人とな
 僧徹に随って行動した。
 そういうことになったので、
 僧徹はこの人を世の中の罹病患者のもとに派遣し
 祈り療養させたが、必ず効果が顕れた。
 昔は身に病を患っていたのに、今は人の病を治癒させるまでに。
 さらに、僧徹の寺の辺には水場が無く、
 水汲みに、常に遠くの山の下迄行かねばならなかったので
 まとめて一度に食物を用意していた。
 ところが、突然、陥没地から、泉が涌き出てきた。
 そして、水が欠乏することも無くなった。
 そんなことがあったので
 秦州
@甘粛甘谷刺史の房裕仁が、
 僧徹の寺を「陥泉寺」と改名。
 僧徹はもっぱら善行を勧める役割に徹するようになり、
 遠くの人も、近くの人も、父母のように崇め敬ったのである。
 そうこうするうち、651年正月になり、
 僧徹は弟子達に告げた。
 「死ぬことになった。」と言い、
 衣服を正し、縄床に端坐し、目を閉じ、なくなった。
 その時は晴天だったが、雪のように花が降ってきた。
 芳如の匂いが室内に薫じ、消えろことがなかった。
 その辺の2二里ほどの樹木の葉の上が白色化した。
 粉がふられたようだったが、3日後に、元の色に戻った。
 尚(なほ)りぬ。
 僧徹の身体が冷えて、3年経過したが、尚、端坐のママ。
 生きているかのようだった。
 臭気が出ず、身の崩壊もなかったが、
 ただ、目から涙が流れ出た。


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