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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.7.31] ■■■
[397] 雑因雑果
善は、あくまでも、悪があってこその概念。

初期仏教では、その辺りについて考える必要などなかったようである。善と悪は、誰でもすぐにわかる当たり前の概念だった可能性が高い。と言うか、教団は、ともあれ"善行せよ。"との掛け声と漲る熱意で成り立っていたのかも。
ただ、それでは身も蓋もない訳で、善因善果・悪因悪果の因果応報が語られることになるが、善悪の見方が世俗的なのが特徴的といえよう。
ところが、世俗の考えに100%のせるのが難しい非世俗の世界も存在する。従って、そこには世俗の善悪を超越した善があるという観念が見てとれる。だからこそ、僧を敬い供養することが善行の筆頭になるのだろうし、究極的善行者とは、世俗から離れ入山した尊者という考え方が極く自然に受け入れられることになる。

こう考えると、ジャータカは初期仏教的経典と考えるべきではないように思えてくる。
「今昔物語集」を読むと、ジャータカは、どうしてバラバラで脈絡もなしに本生譚を数多く集めたのか考えさせられるが、"善"とは何を指すのかという議論を進めるための基本経典と見なすのが、一番自然ではなかろうか。ジャータカとは、"善"、あるいは反"善"[=悪]の分類整理のための基本テキストであり、これに基づいて、仕訳が討議され、善因楽果・悪因苦果の論書が成立することになると考える訳である。

しかし、それでは、どうしても表層的な議論になってしまいがち。利他の大乗精神からすれば、不満がつのること間違いなし。
"善"の概念の明確化が迫られることになる。
(その辺りの教義の変遷に興味はないので調べていないが、常識的に考えれば、大乗化で大きく変化した筈。)

そうなれば、善と悪の二元論ではなんともならないだろから、必然的にどちらにも当てはまらない部分がうまれるし、得福不受福はどう考えるのかということにもなるし、一面だけ見れば善行でも、目に触れぬ所では悪行だったりする場合はどう考えるのか、という当たり前の疑問が生まれる訳である。
マ、それはインテリの悪い癖でもある訳だが。
(【注】膨大な100巻の大乗論書、伝弥勒[著]玄奘[譯]:「瑜伽師地論」648年 卷三には、諸善法があり、1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9, 10種の分類方法が記載されている。)

と言うことで、そんなことを考えさせようとして収載したのではなかろうか、と思われる譚を取り上げておこう。
【震旦部】巻二(釈迦の説法)の巻尾に置かれているから、小生は、そう確信している訳だが。
  [巻二#41]舎衛城婆提長者語

この譚は、初期の経典と推定されている阿含經に収録されている。
  瞿曇僧伽提婆[譯]:「撓繹「含經」398年卷十三23地主品(四)
その原文を引いておこう。
 聞如是:
 一時,佛在舍衛國祇樹給孤獨園。

 爾時,舍衛城中婆提長者遇病命終,然彼長者無有子息,所有財寶盡沒入官。
 爾時,王波斯匿塵土身來至世尊所,頭面禮足,在一面坐。
 是時,世尊問王曰:
  「大王!何故塵土身來至我所?」
 波斯匿王白世尊曰:
  「此舍衛城?有長者名婆提,今日命終,彼無子姓,躬往收攝財寶,理使入官。
  純金八萬斤,況復餘雜物乎!
  然彼長者存在之日,所食如此之食,極為弊惡,不食精細,
  所著衣服垢不淨,所乘車騎極為?弱。」
  世尊告曰:
  「如是,大王!
   如王來言:
   『夫慳貪之人得此財貨,不能食?,不與父母、妻子、僕從、奴婢,亦復不與朋友、知識,
    亦復不與沙門、婆羅門、諸尊長者。
    若有智之士得此財寶,便能惠施廣濟,一切無所愛惜,供給沙門、婆羅門、諸高コ者。』」
  時,王波斯匿説曰:
  「此婆提長者命終,為生何處?」
 世尊告曰:
  「此婆提長者命終,生涕哭大地獄中。
   所以然者,此斷善根之人,身壞命終,生涕哭地獄中。」
 波斯匿王曰:
  「婆提長者斷善根耶?」
 世尊告曰:
  「如是。
   大王!如王所説,彼長者斷於善根,然彼長者故福已盡,更不造新。」
 王波斯匿曰:
  「彼長者頗有遺餘福乎?」
 世尊告曰:
  「無也,大王!乃無毫釐之餘有存在者,如彼田家公,但收不種,後便窮困,漸以命終。
  所以然者,
  但食故業,更不造新。
  此長者亦復如是,但食故福,更不造新福,此長者今夜當在涕哭地獄中。」

 爾時,波斯匿王便懷恐怖,收涙而曰:
  「此長者昔日作何功コ福業生在富家?
   復作何不善根本,不得食此極富之貨,不樂五樂之中?」

 爾時,世尊告波斯匿王曰:
  「過去久遠迦葉佛時,此長者在此舍衛城中為田家子。
   爾時,佛去世後,有辟支佛出世,往詣此長者家。
   爾時,此長者見辟支佛在門外,見已,便生是念:
    『如此尊者出世甚難,我今可以飲食往施此人。』
   爾時,長者便施彼辟支佛食,辟支佛得食已,便飛在虚空而去。
   時,彼長者見辟支佛作神足,作是誓願:
    『持此善本之願,使世世所生之處,不墮三惡趣,常多財寶。』
   後有悔心:
    『我向所有食,應與奴僕,不與此禿頭道人使食。』
   爾時,田家長者豈異人乎?
   莫作是觀。
   所以然者,爾時田家長者,今此婆提長者是。
   是時施已,發此誓願,持此功コ,所生之處不墮惡趣,恒多財饒寶,生富貴之家,無所渇乏。
   既復施已,後生悔心:
    『我寧與奴僕使食,不與此禿頭道人使食。』
   以此因縁本末,不得食此極有之貨,亦復不樂五樂之中,不自供養;
   復不與父母、兄弟、妻子、僕從、朋友、知識,不施沙門、婆羅門、諸尊長者,
   但食故業,不造新者。
   是故,大王!
   若有智之士得此財貨,當廣布施,莫有所惜,復當得無極之財。
   如是,大王!當作是學。」

 爾時,波斯匿王白世尊曰:
  「自今以後,當廣布施沙門、婆羅門四部之衆,諸外道、異學來乞求者,我不堪與。」
  世尊告曰:
  「大王!莫作是念。所以然者,一切衆生皆由食得存,無食便喪。」

 爾時,世尊便説此偈:
  「念當廣惠施,終莫斷施心,
   必當?賢聖,度此生死源。」
 爾時,波斯匿王白世尊曰:
  「我今倍復歡慶向於如來,所以然者,一切衆生皆由食得存,無食不存。」

 爾時,波斯匿王曰:
  「自今以後,當廣惠施,無所悋惜。」
  是時,世尊與王説微妙之法。
  時,王即從坐起,頭面禮足,便退而去。

 爾時,王波斯匿聞佛所説,歡喜奉行。

「今昔」
 舎衛城の婆提長者は膨大な財宝を所有する大富豪。
 飲食・衣服・金銀等の珍宝が倉に積みあがっており、
 その量がわからないほど。
 にもかかわらず、慳貪の心は深く、
 自分のために、飲食・衣服を費やすことを好まない。
 極て異様な生活態度で、
 妻子・眷属・兄弟・親族にも、一塵たりとも物を与えない。
 まして、沙門・婆羅門等、への布施など有り得ない。
 そんな生活を続けていたが、ついに命が尽きた。
 そこで、長者の家の財宝はすべて公けの物としてお取り上げに。
 その国の波斯匿王は、自らお出かけになり、
 すべてを取得してお納めになった。
 王は、釈尊の御もとを参詣。
 波斯匿王:
 「婆提長者は今日亡くなった。
  存命中は慳貪・邪見が深かった者であるが、
  死後、どんな処に転生したか知っておくべきと思う。」
 釈尊:
 「婆提長者は、もともとの福業はすでに尽きてしまった。
  しかし、新たに福業を未だ造っていない。
  邪見のみで、善根を断って来たのである。
  寿命が尽き、叫喚地獄に堕ちてしまった。」
 王はこれを聞いて、際限なきほど涙を流して泣かれた。
 波斯匿王:
 「婆提長者は、昔、
  どんな業を造って、福貴の家に生まれ、膨大な財宝を得たのか。
  そして、どんな悪を造って、慳貪・邪見になり、
  地獄に堕ちてしまったのか。」
 釈尊:
 「昔、迦葉仏が涅槃にお入りになった後、
  婆提長者は、舎衛国の田家の子として生まれた。
  その前に辟支仏がやって来て、食を乞いた。
  そこで長者は、食を布施し、願を発した。
   "我、この善根で、どの世でも三塗に堕ちずに、
    常に財宝で富み、布施を行なう。"
  と誓った。
  その後、このことを後悔するようになり、
   "我、今からは、奴婢には食を与へるが、
    この頭が禿げている沙門には布施はしない。"
  と考えたのである。
  婆提長者は、前世に辟支仏に布施して発願した功徳で、
  生まれた処では常に財に富むみ、窮乏することは無い。
  しかし、布施の後で、それを後悔し、
  財は多いものの、衣食を好まずに常に異様な上に、
  妻子・眷属・兄弟・親族に物を与へず、慳貪・邪見だったから
  遂に、地獄に堕ちたのである。」


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