→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.8.19] ■■■ [416] 瓶子の頸に墨を引く 1177年、俊寛僧都山荘で藤原成親・西光等が平家打倒の密談。瓶子を倒したので後白河が意味を問うと、駄洒落で平氏倒れりと。さらに、図に乗って瓶子の首を折って打ち首とした。勿論、両名には拷問処刑が待っている訳だ。 本朝でしか通じない話だが、同じモチーフともとれそうな譚が巻十に収録されている。 【震旦部】巻十震旦 付国史(奇異譚[史書・小説]) 《28-35 国王》 ●[巻十#31] 二国互挑合戦語 "唐瓶"の普通名は"湯瓶"だが、古くは"軍持"あるいは"君池"と呼ばれていたというから、唐朝成立神話に瓶が係わっているのかもしれない。 ・・・などとつらつら考えてしまうのは、巻十"国史"の国王譚グループの最後に位置するのに、仏法を示唆する言葉がさっぱり見当たらないからである。 せいぜいのところ、賢人孔子も大盗賊盗跖も死は免れぬという言葉が、多少は仏教的ニュアンスを感じさせるという程度か。 それに、"俎上之肉(魚)"の話(楚の項羽と漢の劉邦の鴻門の会@前206年)が挿入されており、いかにも震旦史的風情を醸し出す譚に仕上がっている。 沛公曰:「今者出,未辭也,為之柰何?」 樊噲曰:「大行不顧細謹,大禮不辭小讓。 如今人方為刀俎,我為魚肉,何辭為。」 於是遂去。 [司馬遷:「史記」卷七項羽本紀] ○際限無く相互に挑み合う仲が悪い2つの国があった。 相手を打ち取ろうとするのだが、 国の規模も、軍の人員も同等なので、勝負がつかない。 そんな状態が長く続いたが 一方の国王が死んだ。 ○跡継ぎの皇子はいたものの、幼稚な状態だったので 隣国から責められても支え切れそうになかった。 そういうことで、国軍では、皆、 この国に居れば、徒に命を失うことになりかねず、 敵国に従うのがよかろうと思うように。 国王存命時は、その羽に隠れて、破られずいたが、 それも通用しなくなった。 太子が居るといっても、未だ幼稚で、人の心を分かっておられない。 ・・・等々、で、・・・ 沢山の人が、相手の国に移行してしまい、 国内にいなくなってしまった。 ○敵国の王、この状況を知り、 進軍せず、太子を召すだけでよかろう、と見て 使いを派遣し、参上して我に随え、と伝えた。 それを拒否すれば、斬首とも。 国に残っている人達は、それを聞いて恐怖。 大臣・公卿は、 「統治するためには、その前に生きていなければ。 命を失なえば、国王の位に意味はありませぬ。」 と太子を説得。 「敵は俎板を用意しており、 我はまさに魚の肉叢なのでございます。」 と現実を示し 「敵国に参上し、我が国をお預けなさるべきでしょう。」と。 ○しかし、太子は受け入れない。 「恥を知る人間であらねば。 "命を保証"と言っても、遂には死んでしまうもの。 孔子も死んだし、盗跖も死んだ。 (盗跖は裕福なママ天寿だが、義人は餓死なことを司馬遷は問題視。) (「荘子」では、盗跖が孔子に説教。) 人は、死を逃れることはできないのだ。 生き延びる算段をして 祖の墓を敵人に踏ませて、何の意味があろう。 と言うことで、 敵に随わず、殺される日を待ち、国位を棄る所存。」と。 敵に随う気色が全く見られ無いのである。 そこで、大臣・公卿は太子は未だに幼稚とみなし 長年勤めてきたが、この調子では、 我等が無理して命を捨てる意味があるのかと思うように。 恐怖から、どうしようか迷う者も。 ○太子は、敵国の使を召し、 「汝を斬首しようと考えたが、 そうすると汝の王に伝える者がいなくなる故 生きて返す。」と。 その使いに頸斬り釼を持たさせ、 草で人形を造り、その国王名を付けた上で、 太子は名乗りを上げて叫んで、人形の頸を斬った。 「この国の太子、敵王の頸を斬る。」と。 長年勤めてきたが、この調子では、 我等が無理して命を捨てる意味があるのかと思うように。 恐怖から、どうしようか迷う者も。 太子は、敵国の使を召し、 「汝を斬首しようと考えたが、 そうすると汝の王に伝える者がいなくなる故 生きて返す。」と。 その使いに頸斬り釼を持たさせ、 草で人形を造り、その国王名を付けた上で、 太子は名乗りを上げて叫んで、人形の頸を斬った。 「この国の太子、敵王の頸を斬る。」と。 ○使は本国に戻り報告。 国王激怒。 早速、大軍を率いて国境を越え、太子を召喚。 ところが、太子は一兵も送らず。 そして、なんら怖れる様子もみせずに、 「只今、そこへ向かう。」と。 以前、敵国に随うことをお勧めした大臣・公卿は、 それ見たことかと、皆、敵国に随ってしまった。 残って居る者は、 太子と共に命を棄てる時を待つだけということで 空を仰ぎ見ているだけ。 ○と言うことで、太子出向く。 高足付きの床子2つと瓶子1つに硯・墨・筆、等を 鬘を結った童子2人に持たせて、 床子を打ち立て、それに尻を懸けて坐した。 その前に、床子を立てて瓶子を置き 墨を摺らせた。 敵方の軍勢は、これを見て、楯を叩いて嘲笑。 敵王は、"随う"との文を書いていると見て、出向かずにいた。 様子を見てから、斬首すればよかろうとの算段。 ○すると、 太子は、濃く摺った墨を筆に含ませ 瓶子の首に書き廻らしたのである。 (入墨/刺青は五刑に入っている。) そして、筆を置いてから、釼を抜いて、瓶子の頸に当て、 敵の王に向って言い放ったのである。 「汝等の若干の軍勢は、我が一つの釼にも匹敵しない。 汝等。王より軍兵迄、皆、その頸を見てみよ。 この瓶子の頸に書き廻した墨は、すべて汝等の頸に廻っておるぞ。 我、この瓶子の頸を一刀で打落すが、 墨が汝等の頸に廻っておるように、皆落ちることになる。」と。 敵王から軍兵まで、これを聞いて、 互いに頸を見ると墨を逃れた者が一人も無いのである。 皆、瓶子の如き姿なのだ。 太子は、目を見嗔らかし、今や、瓶子の頸を打落そうという時、 敵国王、急いで下馬。 太子に向かって合掌。 軍は、皆弓を外し、太刀を棄て、顔面を土に付て臥せた。 敵国王は、 「我、今日より後、太子を君としてかしずき奉る。 願くは、太子、頸切をお許し下さい。」と。 すると、太子は柴を焼き、手に付け、 「天皇(皇帝)位に着く。」と宣言。 (封禅の儀式は天子となることだから煙が伝達手段となる。) 敵国王は、自ら「仕人」と名乗り、随うことにして還って行った。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |