→INDEX![]() ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.8.27] ■■■ [424] 梁の粛璟 ![]() 【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来~流布)📖「三寶感應要略錄」引用集 <11-30像> 《26多宝仏》 ●[巻六#26] 震旦国子祭酒粛璟得多宝語 そんな人の話が収録されているのには驚かされた。もちろん、それ以上に無名の人も大勢登場するから、何を今更と言われかねないが、そういう意味ではない。 これは、「今昔物語集」編纂者は、震旦史について、自分なりの見方を確立しているということを意味していそうだから。 浅学な小生など、帝国再興を果たした隋と、それに引き続く唐と違って、梁のイメージ自体が未形成とくる。 そこで、お話に登場する、梁の粛璟とその姉とは、歴史的にはどのように位置付くのか、系譜表示で見ておこう。 これだけも、梁がどう扱われているかがわかろうというもの。 <南斉 479-502年> ○[5]高宗明帝蕭鸞[在位:494-498年] ├┐ ○[6]二男(廃帝)昭粛帝蕭宝巻[在位:498-501年] ┼○[7]八男和帝蕭宝融[在位:501-502年] ┼↓禅譲 <梁 502-557年> ┌───父:(文帝)蕭順之 ├┬┐ ○[南朝初]三男武帝蕭衍[在位:502-549年] ││○二男蕭敷、四男蕭暢、蕭融、蕭宏、蕭偉、蕭秀、蕭恢、蕭憺 │○長男蕭懿 ││ │○閔帝蕭淵明[在位:555年] ├┬┐ ○長男(昭明帝)蕭統 │○[南朝2]三男簡文帝蕭綱[在位:549-551年] │┼○[南朝3]七男元帝蕭繹[在位:552-554年]…西魏⇒北齊[550-577年]の傘下 │┼│ │┼○[南朝4]九男敬帝蕭方智[在位:555-557年] │ │<梁 北朝> ○[北朝初]宣帝蕭詧[在位:555-562年]…西魏(⇒北周)[535-556年]傘下 ├┐ ○[北朝2]三男明帝蕭巋[在位:562-585年] │○五男蕭巖…陳[558-589年(隋により滅亡)]へ逃亡 ││ │○蕭璿 ││ │○(帝)蕭銑[誕生:583 在位:617-621年]…隋煬帝蕭皇后外戚扱 ├┬┬┬┐ ○[北朝3]後主/孝靖帝蕭琮[在位:585-587年]…隋が併合 ┼○二男n.a.、三男蕭瓛、蕭瑑 ┼┼○長女晋安公主 ┼┼○[張皇后子 姉][567-647年]隋煬帝愍皇后 ┼┼┼○[張皇后子 弟]粛璟 ┼┼┼┼○蕭珣、蕭瑒、[張皇后子 弟]蕭瑀 <隋 581-618年>←禅譲<北周 556-581年> ┌───父:楊忠 ○[初]文帝楊堅[在位:581-604年] │ ○[2]三男煬帝楊廣[在位:604-618年] ├┐蕭皇后2子 ○長男元德太子楊昭 │○二男楊暕 │ ○[3]恭帝楊侑[在位:617-618年] ↓禅譲 <唐> ○[初]高祖李淵[在位:618-626年] │ ○[2]二男太宗李世民[在位:626-649年] 唐代。 国子祭酒[=国子学・国子監の長官]の粛璟は梁武帝の玄孫。 梁が滅亡させられ、隋代になり、 粛璟の姉が煬帝の后となった。 大きくなって以後は、仏法を貴び 大業代[605-618年]には自ら法花経読誦を奉った。 経文を深く信じており、 諸々の檀香等で、高さ三尺ほどの多宝仏塔を造り奉った。 さらに、檀木製多宝仏を造像し、塔に安置し奉った。 そんなことで数年を経った頃、 兄の息子 鍄鈴が家に居た。 起床後、その家へ行く途中、 別院の中を通ったところ、 草の中に、檀木の塔を発見。 見ると、蓋の下には、鍮石の仏像が一体あった。 造り奉ったお姿からすると、中国様式ではなく、 面貌からすると胡国様式に似ていた。 仏像の御目には、銀が埋め込まれていて、 眼中の黒き精から清い光が日の光の様に発せられている。 鍄鈴は、これを見て、怪しむと共に、驚いてしまい、 走って行き、伯父の粛璟にこの事を伝えた。 そこで、粛璟はすぐに現場に行き見分。 仏像を見て喜び、持ち運んで家に還って、 建造した塔の中に安置し奉った。 その相い構へたる情景は、 もともと造像して安置奉ったよう。 粛璟は大いに喜び、 「誠心のお蔭で、この仏像を取得できたのだ。」と考えた。 さらに、 この仏像の函の中には、仏舎利が100粒はど入っていたが、 粛璟の家の幼女が、 密かにその舎利を疑っていて 「胡国僧は、常に舎利を鎚で打ち、 破壊されるかどうかで真贋を確かめるそうだから、 我も、窃盗し、試みてみよう。」 と言うことで、30粒ほど取って、 石の上に置いて、斧で打って見た。 すると、たちどころに、舎利が見え無くなってしまった。 女子は怪しんで、地面に落ちたのだろうと見て 迷いながら探し求めたが、ほんの3~4粒しかなく 残りは失せてしまったのである。 女子は恐れ、父の粛璟にこの由を報告。 粛璟は驚いて、塔の中を見ると、 そこには、舎利がすべて元の通りに、一つ残らず在ったのである。 粛璟は、ますます貴び大いに崇め奉ったのである。 そして、この日より、 多宝仏塔の前で、法花経一部読誦を始めることにした。 その後、637年。粛璟罹病。 姉の后や、類親が皆来訪し、相ひ見合った。 それぞれ、香を焚いてから還って行った。 但、粛璟の弟の瑀と、粛璟の娘である尼だけには、 留まってもらい、さらに香を焚いてもらい、読経も。 しばらくしてから、粛璟は、娘の尼に告げた。 「我、すぐに死ぬことになる。 普賢菩薩が来られて、我をお迎えに。 東院にいらっしゃるので、 あの法師を迎へにやってほしい。」と。 娘の尼は、言われた通り、法師を迎えに行かせた。 まだ還って来ないうちに、粛璟が云うには、 「この場所は不浄なので、敢えていらっしゃらないのだ。 我が行くべきだろう。 汝等は、快くここみ留っておれ。」と。 弟の瑀を留めて別れたのである。 そして、別院に行き、その法師に向って跪き、合掌。 暫く、真西に向っていたが、やがて倒れ臥し絶命。 鍄鈴とは、蕭銑の幼名ではなかろうか。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |