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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.8.31] ■■■
[428] 阿弥陀仏五十菩薩図
安樂寺の図絵の話と思しきタイトルなので、てっきり張僧の「画龍点睛」に関係する話かと思ったら全く違った。
  【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布)
  <像>
   《15-20弥陀仏》
  [巻六#16] 震旦安楽寺恵海画弥陀像生極楽語
  ⇒「三寶感應要略」上12隋安樂寺釋惠海圖寫無量壽像感應
     (出唐高僧傳)


読んでみると、震旦の安楽寺と言うよりは、天竺の鶏頭摩寺の方にウエイトがおかれている。
成程、そういうことかと、納得感あり。

要するに、阿弥陀仏の図像を最初に広めたと言われる、鶏頭摩寺@摩陀国王舎城東南に住していた五通菩薩の紹介である。
  ⇒「三寶感應要略」上11鶏頭摩寺五通菩薩請阿彌陀仏圖寫感應
相傳。昔天竺鷄頭摩寺五通菩薩。往安樂世界。請阿彌陀佛娑婆衆生。欲生淨土。無佛形像。願力莫由。請垂降許。佛言。汝且前去。尋當現彼。及菩薩還。其像已至。一佛五十菩薩。各坐蓮華。在樹葉上。菩薩取葉所在。圖寫流布遠近矣。

50菩薩と数が多いが、これは25菩薩の雲中来迎図とは違って、樹木枝上の蓮華座満載の構図が基本となる。
上記に記載されているように、寺の樹木の葉に菩薩を描いたからである。来迎とは状況が全く違うから、当然、阿弥陀仏の印も異なっている筈だ。
平等院の雲中菩薩は浄土を示しているのだろうから、来迎の菩薩ではなく、この流れを汲むものかも。ただ、こちらは52と称されているようで、数字が異なるのでなんとも言い難いが。

尚、小生は、法隆寺金堂西の間の、6号壁画と阿弥陀三尊像は、馴染みのお姿と違う点があるから、この初期様式を踏襲しているのではないかと睨んでいる。焼失してしまった前者は"一佛五十菩薩"ではなかろうか。一方、後者は11世紀に盗難にあって紛失しており、現存像で云々してもなんとも言い難いところ。(場所から見て簡単に盗める訳がなく、極楽往生の阿弥陀像と違うお姿なのでお倉入りさせようという動きがあったのと違うか。)

 隋代。
 江都
@江蘇揚州安楽寺に住する僧 恵海は清河武城の出身。
 出家し、善く経論受習・もっぱら浄土の業を修行。
 ある時、斉州の僧、道領が、阿弥陀仏の絵像を持って来た。
 「この像は、天竺の鶏頭摩寺の五通菩薩が、
  神通力で空を飛び、極楽世界に行き、
  阿弥陀仏の容儀を見奉ってから、
  図絵に仕上げ、奉った像である。」と。
  恵海はその像を見て、年来の思いがつのってきて、
 限りなく喜んだ。
 その仏の像は、正真正銘、耀やき放っていたからである。
 恵海は、希有と感じ入り、
 この図絵の極楽世界に転生したいものと願った。
 そうこうするうち、
 夜になり、恵海、突然起き出し、
 その絵像の前に西向に礼拝し、念じ続けた。
 やがて、暁をむかえ、正座合掌。
 口中で仏の御名を唱へながら息を引き取った。
 人々は、そのお姿を近寄って拝見。
 恵海は、まるで生きているかの様で、どこも変わった所が無い。
 そこで、「必ずや、極楽往生された。」と貴んだのである。


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