→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.6] ■■■ [434] 両界曼荼羅@震旦 [→曼荼羅を知る] 「今昔物語集」でも曼荼羅霊験譚が収録されているが、曼荼羅特有のご利益を感じさせないし、図絵拝観という雰囲気零なので、パスしてしまいがち。 ただ、密教を語る上では、曼荼羅はかかせないので、一知半解的に触れておこう。 【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布) <11-30 像> 《29金剛界》 ●[巻六#29] 震旦汴州女礼拝金剛界得活語 ⇒「三寶感應要略錄」上35禮拜金剛界大曼陀羅圖感應 (新録) 《30胎蔵界》 ●[巻六#30] 震旦沙弥念胎蔵界遁難語 ⇒「三寶感應要略錄」上36念胎藏大曼陀羅諸尊像感應 (新録) なんといっても重要なことは、密教を信仰するなら、灌頂が必須という点。 俗人の場合は、"結縁"入壇灌頂を受けなければならず、その際に用いられるのが曼荼羅。 この手続き無しで、真言を唱えたりすると、それこそ地獄に堕ちかねないほど、重要な行事。小生は、キリスト経の洗礼に当たるとの説明がわかり易いと思うが、そのような解説は見かけない。 そうそう、唐朝の玄宗・粛宗・代宗は入壇灌頂を受けたのである。 その辺りは仏法の広がりの歴史を示す譚で示そうとしたようだが、なにか問題があったようだ。 【震旦部】巻六震旦 付仏法(仏教渡来〜流布) <1-10 史> 《7善無畏三蔵[637-735年]⇒胎蔵界曼陀羅》 ●[巻六#_7] 善無畏三蔵胎蔵界曼陀羅渡震旦語 (後半欠文) ⇒「三寶感應要略錄」上32胎藏曼荼羅相傳感應 (古録) 毘盧遮那如來説大悲胎藏曼陀羅王救護一切衆生金剛手傳受佛教。經數百年。傳付中印度世無厭寺達磨掬多。多謹傳弘。付斛飯王五十二代玄孫釋善無畏。無畏開元七年。從西國將曼陀羅圖來至此國。於玄宗皇帝朝為國師。翻譯大教大曼陀羅。設大旦場。諸尊放光。天雨細花而供養。其得感者。不可單記矣。 《8金剛智三蔵[671-741年]⇒金剛界曼陀羅》 ●[巻六#_8] 金剛智三蔵金剛界曼陀羅渡震旦語 (後半欠文) ⇒「三寶感應要略錄」上33金剛界曼陀羅傳弘感應 (古録) 昔金剛薩埵。親於毘盧舍那佛前。受金剛界大曼陀羅法義。後數百歲。傳於龍猛菩薩。又數百歲之後。傳於龍智。龍智慎傳持之。如瓶水移器。傳金剛智。智是南印度摩ョ耶國人。隨縁遊。隨處利生。聞大支那佛法崇盛。遂汎船東遊。幸于海隅。開元八年中。方屆京邑。於是廣弘祕教。建曼陀羅。依法作成。皆感應瑞。 さて、 ㉙だが、"結縁"入壇灌頂の話である。 傳聞。 津州有孤女。愚癡不信。不識因果。 生年五十有七。遭疾而死。其人見之。 六日方醒。流涙投身自責過。 人異之而問因縁。 女答曰:「吾見不可思議希有之事。 初死之時。入迸鐵火地獄。投地獄中。 獄有心白閻魔王。 王撿一卷書曰:「此女昔於功言弘和上室。 禮拜金剛界大曼陀羅灌頂壇場。 只是彼力耳。汝非生死人。早還人間。」 見此事得活。因此發心耳矣。 【ご教訓】 此れを聞て、心を発して、金剛界の曼陀羅を礼拝し奉る人多かりけり。 尚、原典とは、若干の違いがあるが、その理由は思いつかない。 隋朝の名称 津州@湖北宜都⇒汴州@河南開封 言弘和上⇒誓弘和尚(ネット検索ではみあたらず。) ㉚は、密教の特徴とも言える"加持祈祷"の概念なのだろうか。 傳聞。 大興善寺傳法灌頂阿闍梨惠應。 有一人沙彌。從七歲師事和上。 至十七歲有因縁。附船渡新羅。 忽遇暴風。乘舶頓覆。五十餘人。 沒海不知何處漂寄。 沙彌一心念胎藏聖衆曰。諸海會衆。起大悲心。普救船衆。 如夢見虚空。聖衆如星散光。身忽在岸上。 五十餘人。不溺沒同在一處。 其中二十餘人。謂見空聖衆。當知救難之力不可思議矣。 【ご教訓】 此れを聞て、心を至して胎蔵界の曼陀羅を礼拝する人、多かりけり。 大興善寺@長安の不空の弟子は多いが、傳法灌頂阿闍梨というタイトルから見て、惠應は法嗣の直弟子だったのでは。年代から見ると、恵果が力を発揮するのは、不空示寂後しばらくたってのことかもしれず、弟子育成に注力した結果、伝法阿闍梨となった、という気にもさせる話だ。 どうあれ、唐朝の消滅と共に、震旦での密教は力を失ってしまうのである。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |