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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.9.14] ■■■
[442] 馬生角
四字熟語として烏頭馬角が知られているらしいが、もともとは烏の方はなかったのかも。
それはともかく、そのお話が収載されているので見ておこう。
  【震旦部】巻十震旦 付国史(奇異譚[史書・小説])📖「注好選」依存
  《36-40 他》
  [巻十#39] 燕丹令生馬角語
  ⇒「注好選」上72燕舟馬角
 秦代。
 燕丹
[燕太子丹]は心は猛く悟っていた。
 幼児期に、国王に随行し入秦したまま。
 帰国したかったが、返されず、父母とも会えなかった。
 そこで、父母を恋い悲しんでいるので帰国をと、
 国王に請願したものの許可されなかった。
 しかし、さらに、泣き悲しんで、請願したので、
 国王は言い渡した。
 「汝、それほどなら
  白い頭の烏、角が生えた白馬を、我に見せてみよ。
  その時には、許し、汝を帰国させよう。」と。
 燕丹は、これを聞いて、泣き悲しんだが、
 天を仰いで祈願。
 すると、突然、白頭烏を得ることができた。
 地に伏せて請願すると、
 角が生えた馬がやって来た。
 これらを得たので、国王に上申。
 国王は奇異な事とみなして、すぐに燕丹の帰国を許可した。
 ということで、
 燕丹は思いがかない、旧郷に返り、父母と会うことができて
 悲しみ喜んだのである。


国史の巻として取り上げるならではの面白さ。

史記に燕太子丹は登場するが、一応、書いておいたという扱いでしかない。おそらく、司馬遷は、秦の力を冷静に評価できる能力を持ち合わせぬ凡人と見なしていたのだろう。

しかし、わざわざコメントをつけているのである。馬生角の話は知られているが、収載しなかったと、言い訳。つまり、上記のストーリーは有名だったのである。
  太史公曰:世言荊軻,其稱太子丹之命,「天雨粟,馬生角」也,太過。
   [司馬遷:「史記」卷八十六列傳26刺客[6]評論]

「天雨粟,馬生角」ではなく「烏白頭,馬生角」であるし、明確に人質としている違いはあるものの、大元はコレ。
  燕太子丹質於秦,秦王遇之無禮,不得意,欲求歸。
  秦王不聽,
  謬言曰:「令烏白頭,馬生角,乃可許耳。」
  丹仰天歎,烏即白頭,馬生角。
  秦王不得已而遣之,・・・

   [「燕丹子」卷上]

「今昔物語集」は「注好選」からの収録で、孫引きということもあるものの、手を入れてもよそさそなものだが、避けたのである。おそらく、仏教譚風に映るようには仕上げたくなかったからだ。
司馬遷は、両親にどうしても会いたいという、湿っぽい情感を表に出すしか能のない太子は歴史の藻屑となって消え去っていく運命と見ていそう、ということで、この譚の収載に踏み切ったとみるからだ。
(この国王がその後大帝国の帝になると感じない読者はいないだろう。)

そんなことをついつい思ってしまうのは、四字熟語として知られている理由は、震旦のお話というより、本朝での紹介話と思われるから。ずっと後世の作品だが、その粗筋を書いておこう。
このような譚を、普通は仏教説話と言うのである。「今昔物語集」の目的意識とは異なる。
 先蹤を異国に尋ねると、こんな話がある。・・・
 燕太子丹は秦始皇帝に捕えられ、監禁12年。
 故郷の老母に会いたいと暇を願い出ると
 嘲笑されて、
 馬に角が生え、烏の頭が白くなるまで待てと言われてしまう。
 そこで、天を仰ぎ地に伏して、祈った。
 妙音菩薩は、霊山浄土を詣で、不孝の者共を戒め、
 孔子顔回は、支那震旦に生まれて、忠孝の道を始めた。
 冥顕の三宝/仏・法・僧は、燕丹の孝行を哀れみ、
 角を生やした馬を宮中に遣り、
 烏の頭を白くし、庭前の木に住まわせた。
 始皇帝、烏頭馬角の変に驚いて、
 綸言は取り消すことができないと信じていたこともあり、
 赦免し、本国に帰した。

   [「平家物語」巻五咸陽宮]

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