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■■■ 今昔物語集の由来 [2020.10.14] ■■■
[471] 本朝仏教史の核心
「今昔物語集」を読んでいると、暗記仏教史の頭から徐々に離れていくことが実感できる。

一般には、4段階だが、最初の「仏教伝来」は曖昧な上に、その内容に関する情報もほとんど提示されないので、事実上、NHKの3段階と言ってよいだろう。
 [N]顕教の奈良仏教
 [H]密教の平安仏教
 [K]新興の鎌倉仏教


すでに述べたように、「今昔物語集」の視点は鮮明。まず概念を整理すべしというもの。
 ○聖徳太子の仏教
 ○役行者の仏教
 ○行基の仏教

それは、実は、戒・定・慧/般若という考え方と軌を一にするものの見方である。それが、全編を通じて読むとわかってくるしかけ。
卑近な言葉で言えば生活上の道徳・倫理観、信仰者としての行、宗教学問ということになるが、それらの動きが自然に読めるように編纂されているからだ。
特に、収録譚に、世俗の様々な身分と業態の人々が登場することが大きい。さらに、戒・定・慧の観点でも、トンデモない生活をしている僧を含め、実に多様な"生態"が描かれていることで、読めば目が覚めるようにできている。

そのため、"教権と教団経済基盤"を考慮に入れて読めば、本朝仏教史は自然に見えてくることになる。
実に凄い書である。

つまり、まず第一に見るべきは、救う対象が大きく変化してきた点。
 [1]国家とその骨格を担う組織の安寧
 [2]支配層の要求にオーダーメイドで支援
 [3]層別に分化した対応

従って、中核として活動する仏僧の性格も異なってくる。
 [1]学問主導期…法力向上手法確立
 [2]山岳修行復活期…清浄化/霊威獲得
 [3]行の分化専修化期…専心的信仰表現


NHKで頭が固まっていると、これを読み替えてしまいかねないので注意したほうがよい。暗記には便利だし、説明にお手頃なので、ついつい使うが。
 [N]国家鎮護仏教
 [H]貴族仏教
 [K]大衆仏教

例えば、[1]期では"個人的意思決定"で出家することなどとても無理。ところが、[3]期になれば、天皇も含め、誰だろうと、それぞれの考えで出家するようになる。もちろん、そこには経済的に可能かという高い障壁はあるものの。法皇が生まれる一方で、餌取法師も存在する時代なのである。
社会的大動員ということなら、[1]期の土木事業の方が桁違いに大衆的だったと見ることもできよう。[3]期はそのような社会一丸の動きはとれずバラバラになる。偉容を誇る美麗な巨大寺院が建立される一方で、街中で踊り念仏が流行るのだ。しかも、皇室が両者に対して、尊崇の念を示したりする。
院政時代とは、政治的には、摂関政治から側近多用の法皇独裁制への移行だが、天皇に代わって、全ての民の為に法要を行うことで大衆を救済しようとの強い信念からの行動とも言える訳で。経を読誦し聴聞させることが功徳になる話が山ほど収録されているのは、そんな変化を物語る。

このように見ると、平安仏教⇒鎌倉仏教という切り方は当たっていない気がする。地蔵霊験譚が生まれた時点で[2]⇒[3]の変化が発生しているように思えるからだ。
一方、[1]⇒[2]だが、南都から北嶺へとの流れに合致していると言えなくもないが、概念的には妥当とは言えない気もする。内供とか十禅師という称号を使っており、行一途であると清行禅師とみなされると、官僧として登用される制度が重視されていたことを物語るが、[1]⇒[2]大転換の意図を感じさせないものだからだ。このことは、教権が実質的に朝廷に握られ続けていることを意味している訳で、山岳修行者も国家鎮護の枠組みの下で宗教活動をしていることになろう。これでは時代区分になっていない。
さらに、平安仏教=空海・最澄の時代という単純な見方も避けた方がよさそう。空海登場を支え大歓迎したのは、どうも、三論・法相・華厳の南都僧のようだからだ。

[1]⇒[2]の結節点を設定するなら、818年の最澄による具足戒破棄とすべきだと思う。完全な教権を握ったとはいえないまでも、授受戒を朝廷から独立させる動きであることは間違いないからだ。
その前段が、空海が実現させた、空海の最澄に対する灌頂儀式といえよう。朝廷は意味もわからず承認したと思うが、本朝では画期的。教権は宗派勢力が持つと宣言したようなもの。
教派の懐を握り、宗派代表の任命権を保持していても、これで決着がついてしまったのである。

その辺りは、空海はよくご存じだった筈である。遣唐使船乗船直前まで間違いなく私度僧であり、官の仕組みに乗って修行する気がなかったと見てよいだろう。入唐も国家制度の穴を見抜いて実現させたようだ。もちろん、僧留学年数の国家統制に従う気もはなから全くない。
その点で、最澄[767-822年]とは全く違う。近江国のエリートととして、嘱望された逸材としての道を歩んだことが、その経歴から一目瞭然と言えよう。・・・
(近江は新羅を属国化させ、日本海〜渤海〜船山の海運ルートで発展を望む、インターナショナル勢力。大海人皇子のバックボーンの地域でもあろう。)
 出家@近江国分寺(師:近江大国師行表[724-797年]@崇福寺志賀/大安寺学僧)
 受戒@東大寺785年
 山林修行@比叡山
 内供奉十禅師[桓武天皇]
 入唐804年
山岳修行の清行禅師と認められ、宮中御用僧となり、入唐することができた訳だ。空海とは違い、師の教えに従ったと見てよさそう。但し、その場合の師とは、行表の師の唐僧 道[702-736-760年]@大安寺。本朝ではいかにも兼教的な僧に映るが、震旦僧であり、山岳修行の禅僧と見るべきだろう。
 ・禅:北宗二祖普寂@嵩山の弟子
   大安寺禅院建立
   修禅:比蘇山寺/現光寺/世尊寺@吉野
 ・律:定賓@洛陽大福先寺の弟子
   著:「四分律行事鈔」
 ・天台:荊州玉泉寺系教学
 ・華厳論註著:「華厳経章疏」【推定本朝初伝】
 ・大乗戒(菩薩戒)
   著作(佚書):「集註梵網経」
 ・東大寺大仏開眼供養会咒願師
震旦では、尊師と呼ばれていれば、たいていは弟子を抱える山岳修行僧。本朝のように、都の学僧のランクが高い訳ではない。皇帝が尊師に下山要請することが多いが、それがかなえられるとは限らない。
つまり、宗教活動のベースはあくまでも山での修行で、時に、要請に応え、都に出て檀越や支配層の教化活動を行い、他宗派との会合にも臨むというスタイル。本朝とは違い教権は初めから独立しているのである。
南都にも、このスタイルを望む僧は少なくなかった筈だが、主流は街中の大寺の学僧。学で認知を受けることが高僧への早道だったから当然のこと。行に凝る僧の大半は、学を欠く二流の僧とされたこともありそうだが。

と言うことで、突然、脈絡なく、ご教訓。
本朝は、雑炊的文化が喜ばれる風土であり、西洋的に思想信条で時代区分をすると、流れを読み違えるから注意したほうがよい。

例えば、民主主義的制度に従ったため、第二次世界大戦開戦に引き込まれたと見ることもできるし、それを終わらせることができたのは、民主主義的制度を無視したからなのは明らか。現代でも、部族集合体でしかない名目的国家に普通選挙を持ち込むと民主主義化できると考えるトンデモ発想の人が主流の社会であることを心したほうがよい。

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