→INDEX ■■■ 今昔物語集の由来 [2020.11.6] ■■■ [494] 元良親王の歌 ●[巻二十四#54]陽成院之御子元良親王読和歌語 人物表現が余りに直截的である。 極き好色にてありければ、 世にある女の美麗なりと聞こゆるは、 会ひたるにも未だ会はざるにも、 常に文を遣るを以て業としける。 なんの配慮もなく、美女ならともかく手を出さざるを得なくなるというか、それ以外に人生の目標などありませぬ、という、社会から見れば相当に常識から外れた人のようだ。 しかし、実は、そちらが常識という世界もありえそうな気にもさせるところが「今昔物語集」の凄さ。 但し、そんなことが可能なのは、貴種であることと、歌のセンスの良さがあるからだろう。従って、このお方の歌を無視するなど絶対にできまい。 こと口説くことに関しては、まめな方だったようだから、恋歌は五万とあろうが、そこから1つ選ぶのは大変そうだ。 そのなかから選ばれたのは、容姿端麗で人柄も良いということで、大勢に言い寄られていた、枇杷左大臣の家で使われている岩楊の話。選定理由はわからない。 岩楊は、いくら言い寄られても受け入れなかったらしいが、心を尽くしてアプローチする人がいてついに陥落。 ところが、元良親王はそんなことなど露知らず、美しき女性との噂を聞いて、しきりに言い寄った。 しかし、女は、通ってくる男がいるとも告げず、知らん顔を貫いたのである。 そこで、決め打ちとばかりに、親王は歌を詠んで送ったのである。 枇杷の左大臣殿に、いはや君とて、童にてさぶらひけるを、 男ありとも知り給はで、御文つかはしければ[「元良親王集」] 大空に 標結ふよりも 儚きは つれなき人を 恋ふるなりけり [続古今#1061] ついに、女も返歌。 伊波瀬山 よのひとこゑに 呼子鳥(カッコウ) よばふと聞けば みてはなれぬか 素人には、歌の繋がりがわからぬ。無情な人を恋するのは、大空に注連縄的結界を張るようなものというのに対して、神奈備山で神に反抗するが如くに人を呼ぶと、対比したのだろうか。 結局のところ、二人がどうなったかのかは不明と言わざるを得ないが、この女の所に親王が通ったとの話は無いとの〆だけが記載されている。 小生は、「小倉百人一首」#20の方が親王の人となりがでている気がするが、だれかれ構わず美女なら手を出すという点では、焦点がぼけるとみたか。 事いできて後に、京極御息所につかはしける。 わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身を尽くし(澪漂)ても 逢はむとぞ思ふ [後選#960] 文字通り大事発生である。京極御息所との密通が発覚したのだから。 見つかってしまえば、どうにもならない以上、ここは恋路に徹するしかないと言うのだから凄い。もっとも、謹慎程度で済んだらしいが。 こちらは、流石に返歌は無かったようだ。 (C) 2020 RandDManagement.com →HOME |