表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.2.24 ■■■ 壺と貝「酉陽雑俎」は、20巻30篇と續集10卷10篇からなり、かなりのボリューム。動物の話から始めたが、それは後の方で、前の方には当然のことながら宗教の話が入ってくる。 ところが、その宗教に関する記述部部のタイトルが独特なのだ。「劇語」も愉快な語彙だったが、ここでも 同じように得々の表記で読者にそれとなく内容を暗示している。 そこに、成式ならではのこだわりあり。 まずは1つ目。 【壺史】[卷二] 「壺」とえば普通はPot。ここでは道士の宇宙世界を現す。もっとも、壺中之天ということでよく使われる言葉であるから、意味はすぐにわかる。下記に引用するように、詩にはよく登場する。 しかし、壺史という表現は耳にしたことがない。下手をすれば、オチョクリと見なされないから、わざわざ用いるような素っ頓狂はいないのだと思われる。 「贈白道者」 [唐 李商隠] 十二楼前再拜辞,靈風正満碧桃枝。 壺中若是有天地,又向壺中傷別離。 2つ目。 【貝篇】[卷三] 魚介類の貝は虫系であるから、コリャなんだとなる。しかも、このパートで「貝」については一言の説明もない。説明などしなくても、この本を読むような人ならわかって当たり前ということ。 しかし、それが当時の常識だったかは、かなり疑問。 ただ、読めば何を意味しているかははっきりしている。なにせ、冒頭から「釋門」で始まっており、佛の世界の話であるのはすぐわかる。 要するに、「貝葉」写本の経典が伝来していたからであろう。 中身は薀蓄的に映るが、逸話が入れ込んである。 いかにも当時の世情を伝えるものなのでご紹介しておこう。 <僧萬回の話> 天後任酷吏羅織,位稍隆者日別妻子。博陵王崔玄゙位望倶極,其母憂之,曰:“汝可一迎萬回,此僧寶誌之流,可以觀其舉止禍福也。”及至,母垂泣作禮,兼施銀匙箸一雙。萬回忽下階,擲其匙箸於堂屋上,掉臂而去。一家謂為不祥。一日,令上屋取之,匙箸下得書一卷。觀之,乃讖諱書也,遽令焚之。數日,有司忽即其家,大索圖讖不獲,得雪。時酷吏多令盜夜埋蠱,遺讖於人家,經月乃密籍之,博陵微萬回則滅族矣。 萬回上人をお呼びして、お布施に銀匙箸一雙を。すると、僧萬回、なにを思ったか、やわら、それを堂屋上 に投擲。すぐに立ち去ってしまったのである。 屋根から匙箸を取ろうとすると、なんとそこには讖諱書が。 その數日後、司直の捜索。 萬回上人のお蔭で一族壊滅を回避できたのである。 <狂僧の話> 荊州貞元初,有狂僧善歌《河滿子》,嘗遇醉,伍百途辱之,令歌。僧即發聲,其詞皆伍百從前非慝也,伍百驚而自悔。 奴婢的な下っ端役人が有名な歌を詠っている僧侶をこ馬鹿にして辱めた。 そこで、僧侶は歌を詠った。 ところが、その内容は彼等の悪事をバラすものだった。 野郎ども自悔。 「續集卷三 支諾皋下」にも、僧侶のペテン話が。 成式がなにを考えていたか想像できそうな結末である。 <驢僧の呪力> 世有村人供於僧者,祈其密言, 僧紿之曰: “驢”。 其人遂日夕念之。 經數歲,照水,見青毛驢附於背。 凡有疾病魅鬼,其人至其所立愈。 後知其詐,咒效亦歇。 何世代かに渡って、僧侶に供養を願う村人あり。 密教の呪文での祈祷を願っていた。 僧は欺きて偽の真言を教えた。 「驢」 日が昇れば唱え、暮れると念ずるようになった。 それから数年を経て、水に映してみると、背中が青毛驢のように見えた。 そうなると、凡そ、どんな疾病だろうと、魑魅魍魎や鬼神の祟りだろうと、その人が行くと立ち所に快癒。 その後、僧侶の行為は詐欺であることを知ると、そのような効能は失せた。 「續集 卷五/六」は伽藍拝観の【寺塔記】が掲載されている。そこでの記載もご参考迄。 道教一色化が進む社会のなかで、仏教哲学を考えたりすることが多かったことがわかる。 【語】 各録禪師佳語: 蘭若和尚雲:“家家門有長安道。”(柯古) 荊州些些和尚雲:“自看工夫多少。”(善繼) 無名和尚雲:“最後一大息須分明。”(夢復) 成式は柯古で、他はポン友。すべての道は長安に通ずだが、それをどう感じるかはヒトそれぞれ。 僧侶の名前は冗談半分である。 間違えてはいけないが、長安道とは軍事道路ではない。現実には艶っぽい路そのもの。 「長安道」 [唐 白居易] 花枝缺處青樓開,艶歌一曲酒一杯。 美人勸我急行樂,自古朱顏不再來。 君不見外州客,長安道,一迴來,一迴老。 アッ、ハッ、ハである。 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 1,5」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2016 RandDManagement.com |