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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.3.6 ■■■

序で垣間見える思想

酉陽雜俎シリーズも回数を重ねてきたので、ここらで全巻の「序」を取り上げよう。句読点や引用符を入れて数えても、僅か160字程度の文章。

これこそ肝だと思うが、素人がここから読んでもよくわからない。文章が難しいのではなく、何が言いたいのか、さっぱり見えてこないのである。
意訳というか、勝手に行間を読んで意味付けしないとなんのコッチャになってしまう。と言うか、よくある形式的なお飾りとして、碌に読まずに通り過ぎるのが普通かも。

全巻を俯瞰的に眺めないと、ナンダカねなのだ。
様々なお話に十分に触れ、著者の隠されたというか、公言できぬものの見方を推しはかることができるようになって、初めて序文で何を語ろうとしているかが見えてくる。

そういう点では、序には、実に含蓄ある御言葉が並ぶ。

こういう場合こそ、ド素人の勝手な意訳の威力が発揮できるのではないか。・・・

  「酉陽雜俎 序」  唐太常少卿 段成式 撰
夫《易》象一車之言,近於怪也;
詩人南淇之興,近乎戲也。
固服縫掖者肆筆之餘,及怪及戲,無侵於儒。
無若詩書之味大羹,史為折俎,子為醯醢也。
羞鼈,豈容下箸乎?
固役而不恥者,抑志怪小説之書也。
成式學落詞曼,未嘗覃思,無崔真龍之歎,有孔璋畫虎之譏。
飽食之暇,偶録記憶,號《酉陽雜俎》,凡三十篇,爲二十卷,不以此間録味也。


ご存知のように、「易経」は中国のNo,1とも言うべき書物だが、単なる占筮本である。その中身である"象"とは、横線5本からなるシンボル"卦"とその意味を記載した"符文"にすぎぬ。確かに、文献量は膨大だが、本質的には怪奇譚の集積物。
そんな書にどれだけの意味があろうか。

古代にも詩人は存在したといえば、その通り。しかし、それはあくまでも"朝廷内の歌人"でしかなかろう。商や衛の都は淇川にあったが、その地の名称が"朝歌"と呼ばれるのも、そんなところ。言い換えれば、感興を文芸的に昇華させるとか、政治的主張を組み込んだ諷刺に仕上げるというレベルには程遠く、平たく言えば時間潰しの戯作家達だ。
要するに、帝のお側にお遣えする連中が、決まりきった書き物だらけのなかで、閑にあかせて、怪奇譚的戯作に耽ったということ。
それ以上でも、以下でもなく、思考の結晶などと呼べる代物ではない。

例えて言えば、我々が学ぶ「詩経」や「書経」とは、肉や野菜がふんだんに使われた熱々のスープが沢山入っている大皿料理。「史書」なら、ナイフでお好きなところをお好きなだけスライスして頂けるように供された炙り肉の塊。諸子の文献は、いわば、塩辛や酢漬けの素晴らしい調味料と言えよう。
そんな素敵な料理が目の前にあるにもかかわらず、野鳥の焼肉や、スッポン調理品に、あえて箸をつける必要があるだろうか?

しかしながら、恥を忍んで、頑なにその手のものを書いてみる気になったのは、怪奇譚とは「小説」そのものだから。鼻薬一つで、いかようにもなるのはいかにも魅力的。伝承というか、伝聞を素材にして、いかようにも調理可能なのである。見かけ上は単なる珍品であり、どこからか持ってきただけに映るだろうが、調理の仕方でその味はいかようにもなる。それこそが腕の見せどころ。

私、段成式は、奉職の役どころもあって、文体と修辞中心の文章家に徹してきた。未だかつて、思想を極めるといった深い考えに時間を割いたことが無い。しかし、それは思想なき生活を送ってきたことを意味する訳ではない。そんな発言をする立場になかっただけの話。

は、光武帝の挙任に応じなかった博學有才の学者で、班固、傅毅と並んでピカ一とされていたほどの傑物。章帝はその書いた文を見て激賞し、竇憲に班固に耽溺するな、葉公の褒め言葉をしらぬのか、と言う。
 「公愛班固而忽崔,此葉公之好龍也。」
そんな風に、成式は龍だと感嘆されたいものだと思うが、残念ながら逆なのが現実。

なにせ、陳孔璋が描いた虎画のようなものと謗られたりするのだから。敵将曹操を徹底的にけなし辱めた檄文が、かえって曹操に気に入られ、召し抱えられる訳で、それは確かに、「筆先をほしいままにし自分の利益を得た」といえるし「あの世でどの面を提げて袁公にまみえるのか」というのもその通りだと思う。しかし、私、成式の生き様は、それとは次元が違うと思うが。
(一般的には、よかれと思っての行為が逆効果を生み報復を受けるような状況を指すとされる。時あたかも、牛李の党争の真っ最中。誰かを弁護して減刑すべしと言いせばそうなること必定。[「後漢書 馬援傳」の"所謂畫虎不成反類狗者也。"ということで。])

とは言え、ご存知のように、飽食の日々を過ごしているのは間違いない。その暇な時間に、記憶の片隅から、なにげなくお話を拾い集め、自分なりの方法で記録し、編纂して書に仕上げた訳である。
号して「酉陽雜俎」。

概ね、30篇で、全20巻に達してしまった。

そうそう、すでに述べた分類からすれば、梟肉炒めと呼んでくれるならまだしも、奇妙奇天烈で、料理と呼べるものではないと言われるかも知れぬ。それも気分悪しだから、味の話については一切ふれないことにしよう。
マ、ここだけの話なら、呵々大笑料理とでもしておこうか。

尚、この書名だが、重慶酉陽の地の伝承から採っている。
ご高承の通り、相傳山の麓に石穴があり、その中に千卷の書が秘蔵されていると言われているお話のこと。言うまでもないが焚書逃避文献。まさに隠された宝の山である。誰も探そうともしないようだが。
そのような気持ちで書いてみたのだが、その評価は後の読者に委ねたい。
そうそう、慣習に従って、私のことを字の柯古で呼んでもらう必要はない。本名で結構である。
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