表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.3.7 ■■■ 夢とは酉陽雜俎冒頭の「卷一 忠志」には、初代から11代までの皇帝について、事績というほどのものではないが、なんらかの極く短い逸話が並んでいる。見かけ寿ぎ篇である。【1:618年】高宗/李淵 【2:626年】太宗/李世民 【3:650年】高宗/李治 則天[后] 【4:683年】中宗/李顕 【5:684年】睿宗/李旦 【6:705年】(中宗/李顕) 【7:710年】殤帝/李重茂 【8:710年】(睿宗/李旦) 【9:712年】玄宗/李隆基 貴妃[后] 安禄山 【10:756年】粛宗/李亨 【11:762年】代宗/李豫 そのなかでは、中宗の「夢」話が気になる。どういうつもりで収載したのか、ついつい想像してしまうからだ。 上嘗夢曰 白鳥飛,蝙蝠數十逐而墮地。" 驚覺,召萬回僧曰: “大家即是上天時。” 翌日而崩。 中宗の夢見: "白烏が多数の蝙蝠に追いかけられて堕ちる。" コレ、帝逝去の予言、と萬回上人。 翌日、帝崩御。 この頃の状況とは。・・・ 高宗の七男 中宗は、父帝崩御により即位すれど、実権は母の則天。対抗したが力及ばす、即刻廃位。 その後、大臣や将軍に迫られ、則天は中宗に譲位。中宗は、韋后の力に頼る。ところが、韋后の淫乱問題が勃発。それを追求したため、毒殺されてしまう。韋后が殺され、中宗が埋葬されるのは、玄宗即位後。 これを知ると、この「夢」の話なかなかの出来と言えまいか。 ただ、これは成式が収録した「夢」話とは、かなり異なるタイプ。 どのように考えるべきかの論攷の方は「巻八 夢」に。ここには、「夢」とは何かを考えさせるような仕掛けが組み込まれている。 そこを眺める前に、我々の「夢」感覚について、少々、触れておいた方がよかろう。 我々は、なにげなく、夢物語と言うが、その定義ははっきりしている訳ではない。 字義は、寝ている間に見る架空の世界のストーリーとなろうが、過去の思い出や、仮想の理想状況も、夢のような生活とされるからだ。 この手の感覚は長編フィクションの「源氏物語」最終末(夢浮橋)での尻切れトンボ的結末にも現れる位で、極めてポピュラーなもの。 「今はいかゞあさましかりし世のゆめがたりをだに、と急がるる心の、われながらもどかしきになん」 しかし、思い出を話す気は無いとつげない。 「心地のかき乱るやうにしはべるほど、ためらひて、今聞こえむ。昔のこと思ひ出づれど、さらにおぼゆることなく、あやしう、いかなりける夢にかとのみ、心も得ずなむ。すこし静まりてや、この御文なども、見知らるることもあらむ。」 こうした表現が使われるようになったのは、「枕中記」の「邯鄲の夢」的な話が広く受け入れられたからだろう。ただ、この話には様々なバージョンがあることでわかるように、夢の話はご都合主義でいかようにも変わるのである。一体、何を伝えたいのかを読み取る必要があるということ。 日本で知られる能のストーリーとは違って、、もともとの「邯鄲の夢」では、若者は駒に乗っており佛に帰依する気などない。枕を貸すのも旅館の女主人ではなく、駅舎で休息中の道士。若者の見た夢も、栄華を極めるまでのステップが、いかにも中華帝国らしさ紛々。(名家の娘を娶り、進士の試験に合格、官吏の道を究め、最高位に着く。しかし、左遷。それにめげず、善政に徹してついに宰相の座を射止める。)ところが、突然逆賊とされる。それでも、どうにか死罪を逃れ、冤罪がわかり再び重用される。家は繁栄するが、歳には勝てず死去。・・・、というところで夢から覚める。 この話と似ているとまでは言い難いが、夢の話では、「黄梁夢」も有名である。小生は芥川龍之介の自殺はこの辺りに原因がありそうと睨む。アフォリズムの塊である「侏儒の言葉」もそうだが、引用作品でもあるから、下手をすれば創造の行き詰まり感に襲われかねない危険性を孕む。特に、夢の話は厄介。 もともと、人生論は下らんと言いそうな作家であるが、無意識の世界の「夢」とは、はたして何なのかと考え始めると、ドツボに嵌りかねまい。 「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか。」 夢は異界との交流の接点とされていた時代と比較すれば、一見、現代的な思考に映るが、はたしてそう言えるか。 と言うのは、成式は、この手の情緒的かつご教訓臭を醸し出すお話を収録していないからだ。 それなら、どんな具合か。 「夢篇」の収録話からいくつかピックアップしてみよう。 「夢」の本質を看破しているとは言えまいか。 侯君集與承乾謀通逆,意不自安,忽夢二甲士録至一處,見一人高冠彭髯,叱左右: “取君集威骨來!” 俄有數人操屠刀,開其腦上及右臂間,各取骨一片,状如魚尾。 因幺フ囈而覺,腦臂猶痛。 自是心悸力耗,至不能引一鈞弓。 欲自首,不決而敗 謀反を企て不安にさいなまれる人の夢。 武将が骨を取ってこいと命令。 腦臂を抉られてしまう。 あまりの恐ろしさで、唸って目が覚める。 この悪夢以来、心身衰弱。筋肉に力も入らず。 自首したかったが、決心つかず、自滅。 アル、アル、こんな話。 道士秦霞霽,少勤香火,存想不怠。 嘗夢大樹,樹忽穴,有小兒青褶エ發,自穴而出, 語秦曰: “合土尊師。” 因驚覺。 自是休咎之事,小兒倣佛報焉。 凡五年,秦意為妖。偶以事訪於師,師遽戒勿言,此修行有功之證。因此遂絶。舊説夢不欲數占,信矣。 真面目に修行をつんできた道士の夢。 大樹の洞から童子がでてきて「尊師となられる」と。 驚いたことに、童子は様々な見立てを語る。 そんなことが5年続いた。 マ、妖怪の仕業と考えていたのだが、 たまたま師を訪問した時に話すと、 公言する莫れと言われる。 修行の成果だというのである。 その後、絶えて現れず。 古くからの言い伝えにあるように、 夢は占って欲しくないのだ。 もっともなこと。 ソリャ、もっともダー、もっともダー 蜀醫昝殷言, 藏氣陰多則數夢,陽壯則少夢,夢亦不復記。 医者の見立て。 ヒトの内臓の"気力"が弱くなり"陰"になると、 数々の夢を見るもの。 壮健で、"気力"が"陽"だと 夢見は僅少。 なんだ、インテリ階層には、昔からわかっていたのか。もっとも、だからといって、人生の不安がなくなる訳ではない。何か信じられるものを探し求めるのは、インテリだろうと一般大衆だろうとかわらない。 《周禮》有掌占夢,又“以日月星辰各占六夢”, 謂日有甲乙,月有建破,星辰有居直,星有扶(一曰符)刻也。又曰: “舍萌於四方,以贈惡夢。” 謂會民方相氏,四面逐送惡夢至四郊也。 《周禮》には、夢占いについての記述があるが、 要するに、正夢から悪夢まで、それぞれ規定したにすぎない。 社会的な悪夢だったりしたら、 民を集め、 方位学者に四方に悪夢を追い払ってもらえばよい、 とも書いてある。 的確な社会安定策。なかなかの政治学テキスト。 流言飛語で革命のうねりでもおこされたらたまったものではないし。 漢儀,大儺人辰子辭,有伯奇食夢。 道門言夢者魄妖,或謂三屍所為。釋門言有四:一善惡種子,二四大偏掾C三賢聖加持,四善惡徵祥。成式嘗見僧首素言之,言出《藏經》,亦未暇尋討。 又言 夢不可取,取則著,著則怪入。 夫瞽者無夢,則知夢者習也。 漢の儀式に"伯奇が夢を食う。"があった。 道教的には、夢とは、魄が妖怪になったモノとされており、仏教的には細かな規定があったようである。 僧侶によれば、出典は《藏經》。 確かめていないが、こんなことだという。 夢を取ってはいけない。 取れば、顕著化するからだ。 そして、怪物が入ってくる。 そもそも、目が見えない瞽者は夢など見ない。 つまり、夢とは習い性に過ぎないということ。 大丈夫か、こんなことを書いて。 段成式は危険思想家とみなされかねないのでは。 成式表兄盧有則,夢看撃鼓。 及覺,小弟戲叩門為街鼓也。 又成式姑婿裴元裕言,群從中有ス鄰女者, 夢女遺二櫻桃,食之。及覺,核墜枕側。 兄が見た夢。 太鼓が敲かれていた、と。 覚めてみると、 まだ小さい弟が、戯れに、 門を街の太鼓パレードのように叩いていた。 誰でも経験があるようなこと。 又成式姑婿裴元裕言,群從中有ス鄰女者,夢女遺二櫻桃,食之。及覺,核墜枕側。 伯母から聞いた、 隣に住む女を好きになった、息子だかの夢。 女が登場し、櫻桃を2ツくれたので食べたそうな。 覚めてみると、その核が枕元に堕ちていたという。 ハハハ。これは夢物語ではなく、艶話である。 成式の凄さは、こうした話をしておきなから、夢占い話をちょこちょこと挿入している点。 要するに、怪しげな夢解釈人が大勢いて繁盛しているが、結構、その判断は当たったりするゼと書いているのだ。世の中に伝わる話は、所詮、誰かに都合よきように脚色されているのだから、どの道たいして変わらぬということであろう。 現代から見れば、胡散臭い人達が蠢いている社会に見えるが、その見方は偏見に近い。黙っていても情報が流れてくるような社会ではないからだ。現代の中華帝国のように、天子の手下が情報コントロールに一心不乱ということは無いのである。というより、ほとんどほったらかし状態だから、僅かな情報をもとにした判断を得体の知れぬ人達に頼るのもそうそう悪い話ではない。信頼できそうな見方は、誰から得るべきかは難しい問題なのだヨと成式先生はおっしゃている訳だ。 と言っても、詐欺師もウヨウヨなのは間違いなかろう。 成式が選んだ夢占い人の話のなかから、1例だけあげ、この項の〆としたい。もちろん、それは詐欺師ではなく、まごうかたなきインテリ。 秘書郎韓泉,善解夢。衛中行為中書舍人,時有故舊子弟選,投衛論屬,衛欣然許之。駁榜將出,其人忽夢乘驢蹶,墜水中,登岸而靴不濕焉。選人與韓有舊,訪之,韓被酒半戲曰:“公今選事不諧矣。據夢,衛生相負,足下不沾。”及榜出,果駁放。韓有學術,韓仆射猶子也。 秘書郎の韓泉は「解夢」上手。 知り合いが訪ねてきて、夢を語る。 驢馬に乗って出発。ところが、水中に堕ちてしまう。 なのに、どういう訳か岸に上っても靴は湿っていない。 コレ、とういうことと言うのだ。 この人、実は、旧知の中書舍人に論文を頼んでいたのだ。 それを知った韓泉、酒の勢いで、つい言い放ってしまう。 それは選に漏れるということですな。 その方はそこまで責任など負いませんぜ。 足は潤わない訳で。 その後、表示板には、成果不純と。 言うまでもないが、韓泉の学識は高く、出自も確か。 これを読んで笑えなかった人も多かろう。 (リンク) 「枕中記」[沈既濟]@原典wiki[→] 「黄粱夢」[芥川龍之介]@青空文庫[→] 酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2016 RandDManagement.com |