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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.3.8 ■■■

名医の特徴

卷七に名医の話を集めた「醫」篇がある。長寿を目指す気分が蔓延していた時代の割には、意外なほど記載が少ないのに驚かされる。不老長生話は五万とあるし、名医の逸話も数々あれど、実に蛋白。
これは、成式は、道教の煉丹術や御符に全く期待していなかったし、「醫」はそのエピゴーネンの領域と考えていたということかも。
玄宗皇帝のように、都を道観だらけにし、道術にいくら凝ったところで、健康で長寿命実現にはほど遠いという事実を冷静に眺めていたと推察してのこと。成式の鋭い観察眼の対象が、虫だけでおわる訳がなく、医師の治療実態や、患者の治癒状況も眺めていたに違いない訳で。

せっかくだから、この篇はすべてとりあげてみよう。

少ない記述のなかで、イの一番にあがったのは、元祖。
【神醫】
盧城之東有扁鵲冢,雲魏時針藥之士,以卮臘之,所謂盧醫也。
伝説的にその名が知れ渡っているのが、扁鵲[B.C.401-B.C.310]。齊國盧邑人とされている。(山東省濟南市長清區)その辺りは薬草が豊富だったのだろうか。
と言っても、脈診を始めた人としての祖なのだが。
ともあれ、医神とみなされており、その墳墓へお参りし供物をささげる医師は少なくないことに注目すべしと指摘しているのだ。逆に言えば、それだけ。

華佗[n.a.-208]も非凡とされるが、これに続いて触れられてはいない。麻酔技法の発明者とされ、医の領域でその名前を知らぬ人なしだが、それは後代の発想かも知れぬ。もちろん名医傳のように多くの名前が並ぶ書では三国で必ず入る。三国志があまりに「ポピュラーということもあろう。ただ、この人、どう見ても大衆医を目指した反権力志向に映る。そこで成式は避けたのかも。と言うか、もともと道士の長生法とバッティングするから描きにくい訳だが。(そういうこともあってか、医師の身分は極めて低かった訳で。)

しかし、成式的には、憑き物や神意により病んでいるとして、それに対応可能と称する妖しき人々が跋扈する状況は不快だったに違いない。そんなことを公言することはできぬが。
「醫」篇はそんな心情をうかがわせるような組み立て方になっている。「神醫」といっても、天帝の力を得ているという意味ではなく、医士仲間から神として慕われているという記述。その力を一欠けらでも頂ければという信仰での御陵崇拝であるといった表現になっている。
逆に言えば、特段に扁鵲の能力を持ち揚げている訳ではない。"流石!"の事績は一点に絞っているから見事。
つまり、名医か否かは、処方ではなく、診断と主張しているのである。その鍵を握るのは脈診。道教の士も取り上げられているが、薬草や金石の"現実的"効果については一言も述べていないのである。

但し、物理的な療法士の技量の高さには感服しているようだ。
【針医】
魏時有句驪客,善用針。取寸發,斬為十余段,以針貫取之,言發中虚也。其妙如此。
鍼の第一人者は、針を技巧的に操るスキルは真似できないほど高度。髪の毛にも、針を打てるのだから。
お灸の話は無いが、鍼灸系は職人芸的な繊細な技巧能力が不可欠と考えているのではないか。つまり、一応、鍼灸を学んだというだけではたいした治療はできないと見たに違いない。

従って、診断能力が「?」となると、ほとんど眉唾モノと見ていそう。
【術士】
王玄榮俘中天竺王阿羅那順以詣闕,兼得術士那羅邇(一有“娑”字)婆,言壽二百。太宗奇之,館於金門内。造延年藥,令兵部尚書崔敦禮監主之。言婆羅門國有藥名畔茶去水,出大山中石臼内,有七種色,或熱或冷,能消草木金鐵,人手入則消爛。若欲取水,以駱駝髑髏沈於石臼,取水轉註瓠蘆中。毎有此水,則有石柱似人形守之。若彼山人傳道此水者則死。又有藥名沮ョ羅,在高山石崖下。山腹中有石孔,孔前有樹,状如桑樹。孔中有大毒蛇守之。取以大方箭射枝葉,葉下便有烏鳥禦之飛去,則?箭射烏而取其葉也。後死於長安。
天竺に侵攻し、捕虜を都に連れて来た時、術師もそのなかにふくまれていた。200歳と言うので、太宗が奇なりということで、延年藥を作らせた。
術師は婆羅門國には、とてつもない薬があると吹聴。
術師はその後死亡。

成式はどうも、巫術のようなものは医の領域に当てはまらないと考えているようだ。

【道士】
荊人道士王彦伯,天性善醫,尤別脈斷人生死壽夭,百不差一。裴胄尚書子,忽暴中病,衆醫拱手。或説彦伯,遽迎使視。脈之,良久曰:“都無疾。”乃煮散數味,入口而愈。裴問其状,彦伯曰:“中無腮鯉魚毒也。”其子因」得病。裴初不信,乃膾鯉魚無腮者,令左右食之,其候悉同,始大驚異焉。
脈を診断することで、患者の生死を判断できる道士がいた。
鰓腐れ病の鯉の軽い食中毒を指摘した名医である。
処方によって救った話ではない。

ここの記述こそ、成式ならではものといえよう。
道士の医師を取り上げてはいるが、それなら他の医師でもよかった筈だからだ。誰でも、ここを読めばそう感じる筈である。
道教を知っていれば、医師と言えば、神仙家の孫思[581-682]に決まっているからだ。薬上真人という尊称で呼ばれている程。一般的に言えば、こちらが実は「醫神」である。
それは当たり前のこと。最初の臨床医学百科「千金要方」の著者なのだから。(西洋医学的視点でも、近代的臨床分類の先駆的なものと言える。)
従って、この人の系譜の古代の名医が登場しておかしくないが、成式は無視。

この姿勢わかる。
本になっているからといって、その情報が信用できるものではない時代なのだから。まともなインテリなら、自称経験値ほど胡散臭いものは無いと見なす筈。怪しい輩がそこらじゅうにいたのだから。
成式の思想からいえば、医師とは先ずは「病理」を重視すべしであろう。症状での単純分類は観察の第一歩と言えぬこともないが、それをいくら分析したところで、病理構造発見には繋がらない。疾病概念とはあくまでも原因ありき。それを欠く臨床とは、表層的物真似でしかないということ。
問題発生の構造を見抜く力こそが医の本質。つまり、肝心なのは「病機」の見極め。
実に堅固な思想と言えよう。

【名醫】
柳芳為郎中,子登疾重。時名醫張方福初除泗州,與芳故舊,芳賀之,具言子病,唯恃故人一顧也。張詰旦候芳,芳遽引視登。遙見登頂曰:“有此頂骨,何憂也。”因按脈五息,復曰:“不錯,壽且逾八十。”乃留芳數十字,謂登曰:“不服此亦得。”登後為庶子,年至九十而卒。
こちらの名医も、処方が圧巻というのではない。それどころか、処方薬は出したが、服用する必要はないと言うのである。
患者の全体を眺め、脈診だけで、健康体かどうかが判別でき、どの程度の寿命になりそうかも推定できる力があってこその名医という訳である。

(参考) 吉田意安 編:「歴代名医伝略」1626@NDLデジタルコレクション
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