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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.3.12 ■■■

天竺から帰還の倭僧

こんな本の存在をご存知だろうか。(都の図書館所蔵。)
  大日本仏教全書(114)遊方伝叢書第2」 仏書刊行会 1917
収載されている論攷がコレ。と言っても、最初のは1頁で、酉陽雑俎からの引用文がほとんど。その下に小さな字で主張が記載されているだけなので、題名の印象とはだいぶ違う。・・・
  高楠順次郎:"入竺日本僧金剛三昧伝考 法道和尚伝考"
  (「仏全」114遊方伝:法道和尚伝考,入竺日本僧@「天台電子佛典CD3」)

天竺に渡り唐で没したと思われる、倭國僧 金剛三昧の経歴を議論した唯一の書である。
日本では、この僧侶に関しては、情報の欠片さえないから、なまはんかな調査では手のつけようもない難題に挑戦した訳で、今後もこれ以上の論は現れまい。

明治政府主導の廃仏毀釈が行われるまで、日本は漢訳仏典国。にもかかわらず、本場仏教の天竺に向けた出航僧侶は1人を除いて現れなかったのである。徳川政権末期になるまで、文献上で天竺を訪れた日本人の僧侶は一人もいないのだ。
その例外とは、旅の途中、羅越国で薨去したと伝えられる平城天皇第三子 高岳親王[799-865年]。64才で入唐し長安で学んでから出立したのだから、まさしく異例中の異例。
誰が考えても、なんらかの天竺渡航禁止政策が続いてきたということ。素人的な解釈では、反仏教習合的天竺教や上座部仏教流入は好ましくないということで、道教同様な扱いをするという暗黙の了解があったということ。

ところが、成式は天竺に入った倭國僧に会ったという。

印度の5ヶ国巡礼を果たしたようで、玄奘法師が勉学したのと同じ寺院で修行した際の話を載せている。おそらく、倭人という点に興味が湧いたのではなく、風習と信仰の繋がりに関する洞察力の鋭さに自分との類似的を見つけたので、どうしても記載しておきたかったのだと思われる。
國初,僧玄奘往五印取經,西域敬之。
成式見倭國僧金剛三昧,言嘗至中天,寺中多畫玄奘麻ハ及匙箸,以彩雲乘之,蓋西域所無者。毎至齋日,輒膜拜焉。
又言那蘭陀寺僧食堂中,熱際有巨蠅數萬。至僧上堂時,悉自飛集於庭樹。
  [卷三 貝編]

玄奘[602-664]の話から始まっているということは、その指導で建立した祇園精舍型の西明寺での会合だったことを示唆していると思う。それは、段成式[803-863]にとっては、道教的祭祀政治から精神的に解放される楽しい時間だったのでは。それに、その近隣は極めてインターナショナルな雰囲気だった筈だから。

この文章は、当然ながら、貝篇収載。

それで終わりかと思いきや、もう一度、金剛三昧が登場する。
峨眉山に登ったというのである。仏教に関する話ではなく、土着信仰が体に染みついている歩荷の男の態度に興味が湧いたからだろう。
倭國僧金剛三昧,蜀僧廣升,峨眉縣,與邑人約遊峨眉,同雇一夫,負笈荷藥。山南頂徑狹,俄轉而待,負笈忽入石罅。僧廣升先覽,即牽之,力不勝。視石罅甚細,若隨笈而開也。衆因組衣斷蔓,資エ腰肋出之。笈才出,罅亦隨合。衆詰之,曰:“我常薪於此,有道士住此隙内,毎假我舂藥。適亦招我,我不覺入。”時元和十三年。  [續集卷二 支諾皋]

おそらく、2人の僧侶は岩の裂け目に落ちた歩荷をなんとか助け上げホッとしたとともに、注意力散漫な山歩きはよくないと諭したのだろう。どころが、それに対して、ハイハイとは応えなかったのだ。
この時代、仏僧の交流社会では、すでに市民社会的な文化が形成されており、そこでは自由な主張が許される雰囲気だったことがわかる。そして、反仏教的な道教文化が蔓延していたことがわかる。
拙いことが発生しても、それを極く当たり前の所業と言い張るのである。しかも、それは道教的に意味ある行為の一部であるかのような言い草。これは、まさに、朝廷における道教政治文化とウリ。
これこそ、"支諾"(道教の呪文的神名)の逸話にピッタリということ。

なにも、わざわざ憲宗の"元和十三年"[818年]と細かく書く必要もなさそうだが、考えてみればそれは、武宗の会昌の廃仏[840年]の少々前ということか。

おっと、冒頭に取り上げた書の話を忘れるところだった。
こんなことが書いてある。
東歸シテ在唐セシモノノ如シ。
カカル光前ノ大業ヲ成セル高僧ガ全ク僧史ヨリ隱滅セルハ。
或ハ特殊ノ理由アリテ。然リシモノカ。

金剛三昧ノ名モ亦普通ノ法諱ニ非ズ。

或ハ安然ノ父法道和尚ノ世ヲ忍ブ假名ニ非ズヤトハ校者ガ曾テ想像セシ所ナリ。
南山文庫ニ於テ法道和尚記二種ヲ得タレハ參考ノ爲---

元和十三年ニハ入竺東歸ノ上在唐スルコトヲ得ベシ。


金剛三昧には子があり、それは、宮中で天皇の安穏を祈って内道場で供奉する役職(内供奉)を務めた安然との推定。
法道和尚は弘法大師空海と同時代の人で、安然出生で人生の進路を変える決意をしたようである。唐土西明寺を訪れたらしい。
法道此土闕修縁。仍入唐天台山住不還誓願。則乘唐船如願去。---唐土西明寺至。和尚住奇特思。遂願如佛説趣本國矣。
[御遺跡祕訣(實惠僧正口訣道範増補)鎌倉時代寫本 高野山無量壽院藏]

(尚、仏母摩耶夫人像を祀る播磨国利天上寺の開祖[646年]である、インド出身で唐経由で渡来したとされる、鉄の宝鉢を持つ仙人名も法道。山岳修験道系であろう。)
成式と僧金剛三昧は馬があったのではないか。
ただ、本名を書く訳にはいかぬということで仮名にしたのだろう。名前を残そうとすること自体、「空」の求道者に対して失礼なことだし。
そうそう、倭国で一番好まれた経典は結局のところ「空」の般若波羅蜜多心経。金剛般若波羅蜜経はその続編のようなもの。「空」が言葉の概念ではなくなり、実践論が展開されているにすぎまい。金剛三昧はこの実践型瞑想修行に励む僧だったのでは。その辺りの特徴をよくつかんだ命名と言えよう。

唐朝の光明寺(浄土教)の善導[613-681]の再来と言われ、最終的に五台山佛光寺に居した法照[750前後-820頃か]のことを、最澄の弟子 円仁[794-864 「入唐求法巡礼行記」著者で840年に五台入山]は法照の徳名(化身)として法道和尚と呼んでいたとの説もあるとか。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.
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