表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.3.20 ■■■ 珍品(異種)「物異」篇だから、当然ながら奇異な種も取り上げられている。しかし、コレデモかといった書き方ではない。その辺りが、類書と大きく違う。 【銅駝】 漢元帝竟寧元年,長陵銅駝生毛,毛端開花。 銅イオンは雑菌繁殖を抑えると言われている。その効果を出せるとの効能書付製品は少なくない。はたしてどの程度かは実体験がないので知らぬが。・・・と言うのが現代人の感覚。 しかし、このお蔭で、結構、間違った情報が拡がっている。この話が正しいとしても、それはあくまでもバクテリア/細菌で通用する理屈。黴は全く違う種類の生物であり、そこでも通用するという理屈は通らないのだが、そんな解説だらけ。現代の知恵とは未だにその程度のもの。 生物学を習っていれば、それなりの環境に晒しておけば、銅の表面だろうが、黴は生える筈では。ヒトの脂でもついていれば黴は万々歳だろう。 そもそも、銅にしたところで、それを食べるバクテリアが存在すると考えるのが、現代の進化論。言ってみれば、八百万の細菌の世界こそが、進化そのもの。ところが、儒教やキリスト教的な「血筋が続いている」ことこそが進化論の核と勘違いしている書物だらけなのが現実。 成式の頃の、この辺りの常識がどうだったのかはわからぬが、少なくとも銅は錆びることはあっても、黴が生えることは無いと見ていたのではないか。 従って、変わった黴が生えたりするとビックリ。 しかし、成式先生なら、そういうこともあるだろう位にしか思わない筈。でも、銅製駱駝像に生えたので大笑いしているのである。誰も触らず近寄らずで、暗い湿気った場所においてあって、隠れて油菓子でも食べる場所とされていたに違いないからだ。立派な置物と皆で褒めるが、誰も、駱駝の銅像に関心など無いのである。 しかし、花が咲いたとされているところを見ると、黴ではないかも。そうなるとカゲロウの卵の可能性もあろう。その場合、成式先生はそれを知りながらあえてこの話をもってきたか。 【伏苓[ブクリョウ]】 沈約謝始安王賜伏苓一枚,重十二斤八兩,有表。 「猿の腰掛」と呼ばれる有名な茸。現代でも大きいものが、漢方薬局に飾ってあったりする。漢方薬サイト@武田薬品工業を見ると、赤松あるいは黒松の根に寄生するので、土中から掘りだすそうだ。利尿作用があるとのこと。主な主産地は中国の安徽、湖北、河南、雲南。 93%が多糖類からなるが、そちらの俗説的効能は一言も記載されていない。 ここでは、成式先生、とてつもなく大くて良質な漢方原料が見つかることがあると驚いたご様子。 間違ってはいけないが余りに大きいので尋常ではないと驚いたのではない。そういうことがありうるのは観察眼鋭き人だからお見通し。これだけ大きいものがまだ獲り尽くされていないので驚いたのである。 漢方では、もう一つ有名なものが記載されている。 【牛黄[ゴオウ]】 牛黄在膽中,牛有黄者,或吐弄之。集賢校書張希復言,嘗有人得其所吐黄,剖之,中有物如蝶飛去。 「日本薬局方」収載だから有名と言うよりは、配合されている「救心」、「宇津救命丸」、「樋屋奇應丸」等々の名前が遍く知られていると言った方がよさそう。 牛の胆石である。現代では、健康管理された牛だらけだから、そんなものは滅多なことではみつからないから、超々高貴薬ではないかと思うが、どうしているのだろう。 唐の時代は、除邪逐鬼とされ不老不死に繋がると言うことで、とてつもない人気を博していたと思われるが、成式先生、そのもてはやされぶりに呆れたご様子。蝶になって、異界に飛んでいける仙薬なんだろうネと。 自然界には、色々なものがあるということなど百も承知の成式にとっては、珍しいものが見つかるからといって、どうということもなかったろう。ところが世間では、天啓だとか、目出度いことの予兆といって大騒ぎする。適当に波長を合わせて生活しても、それはあくまでも程度問題。度が過ぎているのではないかとの問題意識を抱えていたようである。 例えば、トンデモなく大きい果物が成ることもあるんだヨと。 【梨】 洛陽報コ寺梨,重六斤。 様々な植物を大切に育て、その変異をつぶさに観察してきたお寺にとっては、大きい果物などさして珍しいことではない。突然変異種はしばしば出現し、それが名物の農産物化したりするのである。ソリャ、これこそ仏様のご利益とはいうものの。 そんな発言にたいした意味はないのである。 もちろん、面倒を見ていなくても、大きな実が成る種は出てくる。生物とはそういうもの。 【桃核】 水部員外郎杜陟,常見江淮市人以桃核扇量米,止容一升,言於九嶷山[湖南]溪中得。 桃も同じように、巨大化する異種がありそうダネー、と。但し、桃果が見つかったのではなく、その核だけ。似ているが、違う樹木の可能性もある。 当代随一の知識人の巣窟があったところで、このように、巨大桃が存在するのか否かさえわからないのが現実。 その知りえる範囲は極めて狭い。未知の領域だらけであり、見たこともないような動物、植物、芝/茸の類はいくらでもある。 いちいち驚いていたらキリないゾ。 【芝】 天保初,臨川人李嘉胤所居柱上生芝草,状如天尊,太守張景佚拔柱獻焉。 未発見の茸類新種。 これも。 【鬼矢】 生陰濕地,淺黄白色。或時見之,主瘡。 動物にしても、新種はまだまだ存在している筈である。 【醢石】 成式群從有言,少時嘗毀鳥巣,得一K石如雀卵,圓滑可愛。後偶置醋器中,忽覺石動,徐視之,有四足如糸延,舉之,足亦隨縮。 未発見の爬虫類だろう。 たったこれしかあげられないのか、と考えることなかれ。 論理的組み立ての上で、慎重に例を選んでいるのである。 梨や桃といった、極くありふれた種でも、異種はまだまだあることをまずは指摘。 そして、なかでも、関心が薄く、全体像がよくわかっていないのが茸(菌類)分野であり、だからこそ異界の霊的存在にされるのだと主張しているのである。 様々な異種をあげる気などさらさらない。それを直接的に言及せず、並べ方も恣意的にそのような主張があからさまにならないように十分注意しているのである。 しかし、そのなかで、これだけは凄いという例が1つあげられている。 【石欄幹】 生大海底,高尺余,有根,莖上有孔如物點。漁人綱育取之,初出水正紅色,見風漸漸青色。主石淋。 これは海底のウミユリ新種ではなかろうか。 先カンブリア紀から生きて来た種である。誰が考えても植物ではないし、さりとて動物でもない、なんだかわからぬ生物だ。成式先生としては、これはトンデモない生物と注目しているのである。流石。 こうした観察眼の鋭さを、分析力と考えてはいけない。 分析能力がプアーでは、どうにもならないが、それが格段に冴えていたとて、要領よく纏めているにすぎず本質に迫る力など生まれようがないからだ。類い稀な創造力を持っているからこそ、分析力を活用することで、新たな気付きが生まれるのである。 亀の話が掲載されているが、これなど典型例といえそう。 明らかに、玄武信仰のハシリを示唆しているからだ。 【龜】 建中四年,趙州[河北]寧晉縣沙河北,有大棠梨樹。百姓常祈禱,忽有群蛇數十,自東南來,渡北岸,集棠梨樹下為二積,留南岸者為一積。俄見三龜徑寸,繞行積傍,積蛇盡死。乃各登其積,視蛇腹各有瘡,若矢所中。刺史康日知圖甘棠奉三龜來獻。 考えてみればわかるが、この情景、驚くような奇異なものではないのだ。 繁殖期には蛇は群体化する。百匹の塊ができたところで、それは珍しいものではなく、そのような場面にヒトがでくわさないだけのこと。絡み合ったままで、その群蛇が死んでしまうこともあろう。 その死体の堆の周りを亀が歩いていたとしても、突飛な話とはいえまい。亀は腐肉食なのだから。 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 2」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2016 RandDManagement.com |