表紙
目次

📖
■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.3.28 ■■■

俗言重視

「卷十一 廣知」とは、今村与志雄 訳では"俗言と物忌み"とされる。
ただ、こうした類の話を「知」としている点も重視したい。なんらかの広域な集団としての知識や知恵がつまっているものでもあると見なしているという意味で。

例えば、いかにも、障害者を差別する言辞や、特定地域を卑しめるための俗言はいつの時代にも存在する。次の話はそう捉えることもできるが、成式がそのようなものだから収載したとはとうてい思えない。
もしも、そのような話であれば、そこになんらかの怒りが込められた言葉が加わると考えるから。(刺青の話など典型。)
そのように推定する理由は、著者は仏教徒として当たり前の姿勢としての、反差別主義を貫こうとしていそうだから。
つまり、環境の影響、あるいは部族遺伝的な原因で発生している現象と見て収載したのではないかと睨んでいる訳だ。ここらは、他の類似書と大きく違うところでもある。
(もっとも、釈迦の説法として伝わる原初的伝承からすれば、強烈な反差別主義となるが、その後は、性や身分の社会的差別を容認するかのような経典内容が多くなる。)

【類生】
山氣多男,澤氣多女,水氣多,風氣多聾,木氣多傴,石氣多力,阻險氣多,暑氣多殘,雲氣多壽,谷氣多痺,丘氣多,衍氣多仁,陵氣多貪
出典:凡地形,東西為緯,南北為經,山為積コ,川為積刑,高者為生,下者為死,丘陵為牡,溪穀為牝。水圓折者有珠,方折者有玉。清水有黄金,龍淵有玉英。土地各以其類生,是故山氣多男,澤氣多女,障氣多,風氣多聾,林氣多,木氣多傴,岸下氣多腫,石氣多力,險阻氣多,暑氣多夭,寒氣多壽,穀氣多痺,丘氣多狂,衍氣多仁,陵氣多貪。輕土多利,重土多遲,清水音小,濁水音大,湍水人輕,遲水人重,中土多聖人。 [淮南子卷四 墜形訓]

こういうことでは。
成式が、現代の疫学的発想で考えているとは思えないが、直観的になんらかの問題ありと見なしたのだと思う。
/唖=発話障害者・・・水(潜水を営めば手話が盛んになる。)
聾(唖)=高度難聴者・・・風(轟音環境下の労働者か。)
傴僂(背骨が弓なりに曲がった病人)・・・木(歩荷仕事が日常。)
力=筋力抜群な人・・・石(ウエイトリフティング鍛錬に近い活動。)
=瘤・・・阻險(山奥の風土病。)
殘=肉体的欠損を抱える人・・・暑(熱帯の風土病。)
壽=長寿者・・・雲(空気が澄む地は健康に良い。)
痺=筋力麻痺の症状を呈する者・・・谷(重金属摂取の影響か。)
=脛が曲がった人・・・丘(傾斜地での農民は腰が曲がる。)
仁=異端に寛容な人・・・衍(広大な雰囲気ある地か。)
貪=貪欲な人・・・陵(貴人墓所墓守部族だろうか。)
そうとも言えぬと感じて削除したと思われる箇所。
疲れ易い人多し。・・・林
腫れもの多し。・・・岸

成式が、鋭い感性も持ち主であることは他の記述でもわかる。
どうしても、以下の話は持ち出したかったのだろう。
【玻璃】
《隱訣》言,太清外術:
頗梨,千冰所化也。
頗梨[=玻璃〕/ガラスは1,000年たった氷が化成したもの。
なんだ、ガラスが氷に似ているというだけの話と言う莫れ。水晶を同じような表現で言うことはないからである。
水晶とは結晶。平衡状態にあり、絶対安定。
しかし、氷は水が結晶した物質ではない。結晶したものは、六角形の雪粒である。つまり、非結晶=非平衡状態。だからと言って、誰もそれを液体とは呼べない。しかし、液体でないからといって、固体とは見なせないのである。1,000年のスパンで見ればそれは流体だからだ。実際、氷が河のように流れることを知らぬ人はいまい。
硝子の素材は水ではないが、同じく、1,000年のスパンで見れば流体という点で氷と同じなのである。

季節感の俗言は解釈が難しいが、冒頭の話なので見ておこう。
【五月上屋】
俗諱五月上屋,言五月人蛻,上屋見影,魂當去。
5月は、屋根へ上がることが禁忌。人は蛻(ぬけがら)化していて、屋根上で影を見てしまうと、魂が去ってしまうからとか。
屋根作業は、夏は当たり前だが最悪。しかも、そのために窓や戸を閉めたりするから、止めて欲しいというのが普通。冬は、凍り付いたりするので危険きわまりない。秋は風が吹くことが多く、これもモノがとばされるので避けたい。それ以外の季節で屋根のメインテナンスをすることになるが、和の旧歴5月は芒種(入梅)を含んでおり、晴れているからといって仕事を始めたりすると、翌日、降雨に見舞われたりするので要注意である。

《隱訣》からの引用は、色々あるが、季節モノはこの3つ。・・・
十月食霜菜,令人面無光。
霜にあたった野菜はミネラルやビタミンの含有量が低下しているので肌に影響がでるゾということかな。
三月不可食陳
漬物は暖かくなると異常発酵するから、特に古漬けを食べるのはよしておけいうことか。
馬夜眼,五月以後食之,殺人。
「生き馬の目を抜く」という発祥がよくわからぬ諺があるが、目玉を食用にするとは思えず、馬肉の部位名称の方だろうか。そうだとすると、拇指の退化した部分(附蝉)を指すことになる。角質であり、鰹康状態や気候の影響を受け易いのであろう。神仙に関与するということか。

"俗言"を成式がどう考えていたかが伺える引用もある。最後の一言だけみておこう。
【湖目】
暦城北二裏有蓮子湖,周環二十裏。湖中多蓮花,紅濠ヤ明,乍疑濯錦。又漁船掩映,罟疏布,遠望之者,若蛛網浮枉也。魏袁翻曾在湖悼刻W,參軍張伯瑜諮公,言:“向為血羹,頻不能就。”公曰:“取洛水必成也。”遂如公語,果成。時清河王怪而異焉,乃諮公:“未審何義得爾?”公曰:“可思湖目。”清河笑而然之,而實未解。坐散,語主簿房叔道曰:“湖目之事,吾實未曉。”叔道對曰:“藕能散血,湖目蓮子,故令公思。”清河嘆曰:“人不讀書,其猶夜行。二毛之叟,不如白面書生。”
人は読誦をしなければ、夜道を歩いていくようなもの。銀髪が混じる老翁だからといっても、年が若くて経験の浅い書生の知力に届かないのである。

従って、博識で、知の巨人のような人もいる。
【発掘銅匣】
胡綜、博物,孫權時掘得銅匣,長二尺七寸,以琉璃為蓋。又一白玉如意,所執處皆刻龍虎及形,莫能識其由。使人問綜,綜曰:“昔秦皇以金陵有天子氣,平諸山阜,處處輒埋寶物,以當王氣。此蓋是乎?”
始皇帝は、敵対勢力が王を立て都をつくりかねないような山地をならしてしまい、寶物を埋めたそうだから、状況から判断して、発掘品はそれではないかとの見立て。
間違えてはいけぬが、暗記している情報量が膨大という意味での博識ではない。幅広く知っているからこそ、洞察力のレベルがただならないと言っているのである。
俗言にのって皆で大騒ぎするような人だらけの社会で、このような役割を果たす人がもっと出て欲しいと感じさせるお話に仕上がっている。但し、そう読める人だけに向けたメッセージである。もっと勉強せいヨと。

道術に博識の方の指摘も記載されているが、こちらは自明では。
【瓷瓦器】
李洪山人,善符,博知,常謂成式:“瓷瓦器者可以棄,昔遇道,言雷蠱及鬼魅多遁其中。”
ヒビ[/紋]が入った陶器や素焼き品の器は棄てなさいというだけのこと。そこには、雷蠱や鬼魅が居るから。マ、魑魅魍魎的な菌だらけなのは確かである。

成式の目は鋭いと感じさせるのは実は次の一文。作品観賞後の一文にすぎぬが、現代人でもこれだけ書ける人はそうそういまい。
【佛畫】
近佛畫中有天藏菩薩、地藏菩薩,近明諦觀之,規彩鑠目,若放光也。或言以曾青和壁魚設色,則近目有光。又往往壁畫僧及神鬼,目隨人轉,點眸子極正則爾。
地藏菩薩をモチーフの核にしている仏画が増えているようだが、丁寧に拝見すると、その彩色通則をまもりながら、目を全体に溶け込ます作風になっていることがわかる。その結果、眼光が放たれているのだ。曾青色と壁魚色を使うと、近くで見ると光があるように映ると解説してくれる人もいる。往々にして、壁画には、僧と神鬼が描かれるが、目が人の動きに従うことになる。と言っても、そうなるのは瞳の点が極めて正しい位置に描かれている場合に限る。
絵の力に感嘆しているのだが、そのためには優れた技法が不可欠と見抜いているのである。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 2」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.
 酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>>    トップ頁へ>>>
 (C) 2016 RandDManagement.com