表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.4.2 ■■■ 一行禪師伝一行[683-727年]は玄宗の命で大衍暦を編纂したことで知られる。日本真言宗の系譜でも祖としての扱い。河南濮陽の南樂[昌樂]出身。祖は太宗朝の大臣張公謹で、懍の息子 遂である。父母死去で出家。 天文学は測量に基づいた純粋に科学的なものであり、欧州での子午線計測より1,000年早い。 以下に示すように、密教の祖の一人とされているが、それは基本テキストたる「大日経義釈」の著者だからだろう。(善無畏の協助翻譯者)おそらく、道教的呪術を信じていないと思われる。それよりは、儒教的風土に合わせ、墓相の風水理論を構築することに精力を注いだようである。一種の天文-地理学化ということであろう。(外國人向「滅蠻經」著者でもある。) 龍猛菩薩 | 龍智菩薩@ナーランダー寺 | 金剛智三蔵[669-741年] | | | | | 不空三蔵[705-774年] | | | 善無畏三蔵[637-735年]インド出身翻訳僧 | | └玄超 天師一行阿闍梨[683-727年] : 恵果阿闍梨[746-806年] ←┘ |@長安 青龍寺 弘法大師空海[774-835年] 一方で、禅を極めた僧とも見なされていた。 菩提達磨[378-528年]@嵩山少林寺 | 正宗普覚大師慧可[487-593年] | 鑑智禅師僧璨[500-606年] | 道信[580-675年] | 大満禅師弘忍[602-651年] | |(南宋) | 大鑑禅師慧能[638-713年] | |(北宋) 大通禅師神秀[606-706年] | 大照禅師普寂[651-739年] | |<法嗣> | 宏正 | 大慧禅師一行[683-727年] 五胡十六国の時代の権力者は仏教徒であるから、長安を中心とする中原は仏教地域ではあったが、仏教が中華帝国で広がったのは、おそらく鳩摩羅什が401年に亀茲国から長安に入ってから。 もちろん、仏教弾圧がなかった訳ではないが。 なかでも、南朝の梁の初代皇帝[502-549年]は、仏教保護政策を進めたことで著名。なにせ、"南朝四百八十寺"と呼ばれる位だったのだから。しかし、最初からそうだった訳ではないかも。・・・ 【僧侶斬殺】[續集卷四 貶誤] 俗説沙門杯渡入梁, 武帝召之,方奕棋呼殺,閽者誤聽,殺之。浮休子雲: 梁有榼頭師,高行神異,武帝敬之。 常令中使召至,陛奏磕頭師至,帝方棋,欲殺子一段, 應聲曰:“殺。” 中使人遽出斬之。 帝棋罷,命師入,中使曰:“向者陛下令殺,已法之矣。 師臨死曰:‘我無罪。 前生為沙彌,誤鋤殺一蚓,帝時為蚓,今此報也。’” 梁の武帝が有名な僧侶が来ているというので、召した。武帝は碁打の最中だったので、「殺せ」と声をあげた。臣下はそれを、石ではなく、僧に対する言葉と聴いてしまい、殺してしまった。 一応、こういうこととされている。・・・ 梁に高名な僧侶がおり、抜群の法力なので、武帝も敬っていた。 使いに召すように命令し、僧侶参上。その時、帝は碁で石を一つ殺したかった。 そこで、「殺せ。」と。 臣下は忠実に、斬り殺した。 碁が完了。帝、入れと。臣下、帝の殺せとのご命令通りに、措置致しましたと。 死に臨んで、師は語った。 「私には罪は無い。ただ、前生に沙弥だった時に、誤って蚓を鋤で殺したことがある。帝はその時の蚓である。今、その報いを受けているのだ。」と。 その"篤く三宝を敬った"武帝もやがて統治力を失い、北朝侵攻に賭けたが、その武将の反乱で餓死。 仏教勢力も、至高の教義を論ずる層と、単なる金喰い虫層に分かれていったたのであろう。 盗賊を生業とする僧や、少女拉致暴行僧のお話をすでに取り上げているから、後者の僧侶によって寺の風紀も乱れていたということであろう。・・・ 【尼房頭蓋骨】[續集卷三 貝編 支諾皋下] 曹州南華縣端相寺,時尉李蘊至寺巡撿,偶見尼房中地方丈余獨高,疑其藏物,掘之數尺,得一瓦瓶,覆以木槃。視之,有顱骨、大方隅顴下屬骨兩片,長八寸,開罅徹上,容釵股若合筒瓦,下齊如截,瑩如白牙。蘊意尼所産,因毀之。 官僚による、寺の巡視の話。 偶然、尼房の床が一ヶ所盛り上がっているのを見つけた。隠匿物ありとの疑いがうまれ、数尺掘り進んでみた。すると、木で覆われた瓦瓶が1個でてきた。調べてみると、中に頭蓋骨が入っていた。・・・これは、尼が産んだものだから、壊してしまえ、と。 そんな状況で、僧、一行はどんな姿勢で臨んでいたかの話がでてくる。 【僧一行】[卷一 天咫] 僧一行博覽無不知,尤善於數,鉤深藏往,當時學者莫能測。 博学にして知らぬものなし。特に、"数術"は素晴らしかった。当時の学者から見ると、その才能は計り知れぬレベル。 この一行(いちぎょう)は前置きで、ここからが秀逸。 【一行救命殺人犯】[〃] 幼時家貧,鄰有王姥,前後濟之數十萬。及一行開元中承上敬遇,言無不可,常思報之。 尋王姥兒犯殺人罪,獄未具。姥訪一行求救, 一行曰:“姥要金帛,當十倍酬也。明君執法,難以請求,如何?” 王姥戟手大罵曰:“何用識此僧!” 一行從而謝之,終不顧。 一行心計渾天寺中工役數百,乃命空其室内,徙大甕於中。又密選常住奴二人,授以布嚢,謂曰:“某坊某角有廢園,汝向中潛伺,從午至昏,當有物入來。其數七,可盡掩之。失一則杖汝。”奴如言而往。至酉後,果有群豕至,奴悉獲而歸。一行大喜,令置甕中,覆以木蓋,封於六一泥,朱題梵字數寸,其徒莫測。詰朝,中使叩門急召。至便殿,玄宗迎問曰:“太史奏昨夜北鬥不見,是何祥也,師有以禳之乎?”一行曰:“後魏時,失熒惑,至今帝車不見,古所無者,天將大警於陛下也。夫匹婦匹夫不得其所,則隕霜赤旱,盛コ所感,乃能退舍。感之切者,其在葬枯出系乎?釋門R以心壞一切善,慈心降一切魔。如臣曲見,莫若大赦天下。”玄宗從之。又其夕,太史奏北鬥一星見,凡七日而復。 成式以此事頗怪,然大傳衆口,不得不著之。 一行にも昔の借りというか恩義があった。隣の婆様が援助してくれたからこそ、今のように厚遇される地位につけたのである。それに報いねばと常々思っていた。 その婆様から、息子が殺人犯で挙げられているので助けてくれと頼まれる。 お金なら10倍返せるが、救う方は無理と言うと、婆様、拳を振り上げ「何の用にもならぬボウズめ!」と罵る。 一行、ひたすら謝るのみ。婆様一顧だにせず。 そこで、仕方がないから、一策を・・・。 寺の奴2人に、黄昏時に某廢園に隠れ、7頭の豚をとっつかまえろと。そして、甕の中に入れ木の蓋で覆い、泥で封じ、梵字を書く。 翌朝、早速、玄宗からご下問。 「昨夜、北門が星空から消えて、見えなくなったが。」 それに答え、 「これは、古から、天の警告。 慈心をもって臨むべし。大赦しかなし。」と。 玄宗これに従う。そして星復活。 ───「酉陽雑俎」にしては珍しく、コメント付き。 成式思うに、これは頗る奇怪。しかし、大衆的に広まっているので、書かない訳にはいかない。 ───ハハハ。 【僧一行】[卷三 貝編] 僧一行窮數,有異術。 一行、"数術"を極めており、異術使いでもあった。 【一行雨乞】[〃] 開元中,嘗旱,玄宗令祈雨。 一行言:“當得一器,上有龍状者,方可致雨。” 上令於内庫中遍視之,皆言不類。數日後,指一古鏡,鼻盤龍, 喜曰:“此有真龍矣。”乃持入道場,一夕而雨。 旱魃に見舞われ、玄宗は祈雨のご祈祷。 一行、 「龍状の器があれば雨乞い出来ます。」と。 早速、内裏中を探したが、誰もがそんな器は無いという。 数日後。 とある古い鏡の鼻に龍が付いているのを指摘し、 「コレこそ真の龍。」と。 それを持って道場に。その夕べに降雨。 ───一般的に鏡を使うのは道教の呪術。 【一行七曜】[卷十二 語資] 燕公常讀其夫子学堂碑頌,頭自“帝車”至“太甲”四句悉不解,訪之一公,公言:“北斗建午,七曜在南方,有是之祥,無位聖人当出。”“華盖”已下,卒不可悉。 燕公は「夫子学堂碑」をよく読んでいた。頭に登場する、“帝車”から“太甲”までの4句が悉くわからなかった。 (述夫帝車南指,遁七曜於中階;華蓋西臨,藏五雲於太甲。[王勃:「益州夫子廟碑」]) 一行 公に尋ねると、答えてくれた。 「北斗が午の方角にあれば、七曜は南方に。これは瑞兆有りということになります。 そこで、無位の聖人が当然ながら出てくることになりましょう。 “華盖”以下は、悉くわかりません。」と。 ───なんのこっちゃ。 【一行的囲碁観】[卷十二 語資] 一行公本不解奕,因會燕公宅,觀王積薪棋一局,遂與之敵,笑謂燕公曰:“此但爭先耳,若念貧道四句乘除語,則人人為國手。” 一行公は本来的に碁の打ち方を理解していなかった。燕公の邸宅での会合の時、王積薪の囲碁対局を観戦した。そして、ついに王と対戦する羽目に。 そして、一行公は笑いながら燕公に言った。 「この勝負は、ただ先陣争いするだけ。もし、貧道四句の乘除語を念じたら、即、その人は国の名手になりましょう。」と。 そして、一行の最期の話。 【一行與玄宗】[卷五 怪術] 玄宗既召見一行,謂曰:“師何能?” 對曰:“惟善記覽。” 玄宗因詔掖庭取宮人籍以示之,周覽既畢,覆其本,記念精熟,如素所習讀。 數幅之後,玄宗不覺降禦榻,為之作禮,呼為聖人。 玄宗、 「師は何がおできになるのか?」と。 一行、 「単に、よく記憶しておくだけです。」と。 そこで玄宗、掖庭宮から人籍簿を持ってこさせて見せた。すべてを閲覧し、其の本を覆い、記憶したことを精緻に述べた。まるで、普段から習ってきたことを素直に出しているかの如く。 数頁進んで、帝は突然玉座から降り、拝礼し、"聖人"と呼んだ。 ───記憶術の大家だったようだ。仏教にはその能力をつける行があるのかも知れない。 【一行非凡】[〃] 先是一行既從釋氏,師事普寂於嵩山。 師嘗設食於寺,大會群僧及沙門,居數百裏者,皆如期而至,聚且千余人。 時有盧鴻者,道高學富,隱於嵩山。因請鴻為文贊嘆其會。至日,鴻持其文至寺,其師受之,致於幾案上。 鐘梵既作,鴻請普寂曰:“某為文數千言,況其字僻而言怪,盍於群僧中選其聰悟者,鴻當親為傳授。” 乃令召一行。既至,伸紙微笑,止於一覽,復致於幾上。鴻輕其疏脱,而竊怪之。俄而群僧會於堂,一行攘袂而進,抗音興裁,一無遺忘。 鴻驚愕久之,謂寂曰:“非君所能教導也,當從其遊學。” 一行は、仏教に帰依し、嵩山で普寂に師事した。 かつて、師は、寺で食事を準備し、僧侶と沙門の大会合を開催したことがある。数百里の遠方から、その日に合わせて集まり、総勢千名を越えた。 そのなかには、"道高學富"とされる、嵩山に隠遁している盧鴻も。頼んであった、その会合の賛を持参してきてくれたので、師は受け取り幾案上に置いた。 梵鐘が鳴り、いよいよ始まるので、盧鴻は普寂に言った。 「某の書き下ろした文章は数千言になります。その文字には稀なものもありますし、発音も不可解だったり。聡明にして悟った僧を、沢山のなかから選んでいただければ、親身になって伝授致しますが。」と。 そこで召しだされたのが一行。来るなり、紙を伸ばして微笑み、ザッと閲覧後、幾上に戻した。 盧鴻は、その軽率な態度を軽蔑したが、同時に奇怪であると訝った。 暫くして、お堂で僧侶達の会合が始まり、一行は袂をあげ進み出て、強い調子で話し、全文を処理しきった。そこには一つたりとて遺漏がなかった。 しばらく、鴻驚は驚愕の境地。そして普寂に言った。 「君が教導できる器を越えてますな。遊学させるしかないでしょう。」と。 ───非凡な僧にすべてを教える風土が出来上がっていたようである。遊学が当たり前の社会だったのだろう。 【一行遊学】[〃] 一行因窮大衍,自此訪求師資,不遠數千裏。 嘗至天臺國清寺,見一院,古松數十歩,門有流水。一行立於門屏間,聞院中僧於庭布算,其聲籟籟。 既而謂其徒曰:“今日當有弟子求吾算法,已合到門,豈無人道達耶?” 即除一算,又謂曰:“門前水合卻西流,弟子當至。” 一行承言而入,稽首請法,盡受其術焉。而門水舊東流,今忽改為西流矣。 一行は"大衍"暦法を極めたので、師を探し求めて旅することに。数千里をものともせず。 しかして、たまたま辿り着いたのが天台の国清寺。そこの一院を見ると、古松が數十歩にわたり生えており、門前には水が流れていた。門屏の間に立っていると、院の中庭で僧が算の最中。その音が笛の音のように聞こえてきた。 生徒に言う声が、 「今日は、我が算法を求めて弟子が来ることになっている。既に門に到着しているかも。誰もいないのか?」と。 すぐに、一算を除いて、言う。 「門前の水は西に向かって流れていてもおかしくない。弟子もついに到着した頃合いだろう。」と。 一行は承服し中に入り、深々と稽首し法の教授を請う。そして、その術を習得。すると、今迄東向きだった門前の水流が、西向きの流れに忽然と変わったのである。 ───名門の天台山国清寺でも研鑽。免許皆伝。 大衍暦の成果は驚異的なものに映ったようである。 【一行造大衍暦】[〃] 邢和璞嘗謂尹惜曰:“一行,其聖人乎?漢之洛下閎造大衍暦,雲後八百歲當差一日,則有聖人定之,今年期畢矣。而一行造大衍暦,正在差謬,則洛下閎之言信矣。” 算木を使う占術に長けていた邢和璞は、"博学,尤通老子書"とされる道挙官僚の尹惜に言ったそうだ。 「一行は聖人なのか? 漢の洛下閎が"大衍暦"を造った時に、800年後に誤差が1日生まれるが、それを聖人が登場して定めるだろうと。 今年がまさにそれに当たる。 しかして、一行は"大衍暦"を造ったのだ。正に、その誤差が生じた時である。 洛下閎の言ったことは、当たっている。」と。 ───星の宗教でもある道教の視点では、一行の科学的天文学は驚異的。道士も感服せざるをえなかったろう。複雑で理解し難い"算"の本質をたちどころに見抜いたのだと思われる。 以下は付け足しのような話。 【一行借書】[〃] 又嘗詣道土尹崇,借揚雄《太玄經》。 數日,復詣崇還其書。 崇曰:“此書意旨深遠,吾尋之數年,尚不能曉。吾子試更研求,何遽還也。” 一行曰:“究其義矣。” 因出所撰《太衍玄圖》及《義訣》一卷以示崇, 崇大嗟服,曰:“此後生顏子也。“ 一行は、道士の尹崇から、揚雄:「太玄經」[儒教+道教+陰陽道の宇宙論]を借りたが、数日後、やってきて、その本を返した。 尹崇は言う。 「この書は意義深く深遠。私など数年検討しているが、未だにモノにできずにいる。あなたも、研鑽すべくもっと試されたらよかろうに。何故に急遽返そうとするのですか。」と。 一行、それに応えて、 「この書の意義を究めましたので。」と。 そして、著作たる「太衍玄圖」と「義訣」一卷を尹崇に示した。 尹崇は、大いに感服。 「顏子[B.C.521-B.C.481]の生まれ変わりなり。」と。 ───本は貸さない、返さないという社会であり、ちょっとやそっとの驚きではなかった筈である。 自負心を隠さず、自信家でもある読書家の成式先生も、一行和尚をライバル視したいところだろうが、流石に脱帽しかなかろう。 さてここまでくれば、後は、一行と師 普寂の、最期のシーン・・・。 【一行入寂】[〃] ”至開元末,裴ェ為河南尹,深信釋氏,師事普寂禪師,日夕造焉。 居一日,ェ詣寂,寂雲:“方有小事,未暇疑語,且請遲回休憩也。” ェ乃屏息,止於空室。 見寂潔正堂,焚香端坐。坐未久,忽聞叩門, 連雲:“天師一行和尚至矣。” 一行入,詣寂作禮。 禮訖,附耳密語,其貌絶恭,但額雲無不可者。 語訖禮,禮訖又語。 如是者三,寂惟雲:“是,是。” 無不可者。一行語訖,降階入南室,自闔其戸。 寂乃徐命弟子雲:“遣鐘,一行和尚滅度矣。” 左右疾走視之,一行如其言滅度。 後ェ乃服衰𦵏葬之,自徒歩出城送之。 深く仏教に帰依する河南の尹がいた。名前は裴ェで、普寂禪師に師事していた。朝夕、禅師のもとに通う生活。 ある日のこと、師を訪ねるとこんなことを言う。 「ちょっとした所用があって、今、語り合う暇が持てないので、時間を遅らせてくれまいか。それまでご休息のほど。」と。 そこで、裴ェ、退いて、空き部屋で控えていた。 様子を見ていると、普寂は正堂を掃き清め、お香を焚いて端坐。座ってから、たいして経たないうちに、突然、門を叩く音が聞こえてきた。それに連なり、 「天師 一行和尚がいらっしゃいました。」の声。 一行が入って来ると、普寂拝礼。礼を終えると、耳に口をつけて密談。 その容貌には恭しさが見て取れた。 話が終わると礼。礼が終わると話。 こんなことが3回。 普寂は、ただ、 「その通り。その通り。」と。 終わって、一行、階段を降り南の部屋に入り、自分で扉を閉めた。 普寂は徐に弟子に命じた。 「鐘を衝くように。一行和尚は入滅なさった。」と。 左右の者が急いで見に行くと、その通り入寂なさっていた。 その後、裴ェは喪服に着替え葬った。自分の足で歩いて、城外まで送ったのである。 ───成式は、ふと、薬物による自殺との疑念がよぎったのではないか。 尚、一行和尚入寂は727年10月8日、長安 華嚴寺でのこと。一か月前から臥病不起だったと伝わる。 《御制大慧禅師一行碑銘》 “長無暇日,日誦万文。深道極陰陽之妙,属辞尽春秋之美。” (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2016 RandDManagement.com |