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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.4.8 ■■■

韋斌傳

段成式[だん せいしき:推定803年〜863年]字名は柯古。
柯"とは、枝のこととされているようだが、長安の街路や屋敷内で大きく育っている槐樹を指すのではないか。
現時点はいかにも繁茂しているが、様々な怪奇譚がそこから生まれているように、それは「南柯の夢」かも知れぬという気分をあらわしていると思われる。・・・

(淳于は酒に酔って槐樹の下で寝てしまった。)
東平淳于,呉楚游侠之士,嗜酒使氣,不守細行,累巨産,養豪客。曾以武藝補淮南軍裨將,因使酒忤帥,斥逐落魄,縱誕飲酒為事。家住廣陵郡東十里,所居宅南有大古槐一株,枝幹修密,清陰數畝,淳于生日與群豪大飲其下。
唐貞元七年九月,因沈醉致疾,時二友人於坐扶生歸家,臥於堂東廡之下。二友謂生曰:「子其寢矣,余將秣馬濯足,俟子小愈而去。」生解巾就枕,昏然忽忽。髣髴若夢。見二紫衣使者,跪拜生曰:「槐安國王遣小臣致命奉邀。」

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(2人の使者に迎えられて行った所は、"
大槐安國"。)
入大城,朱門重樓,樓上有金書,題曰《大槐安國》。
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(そこは遊興三昧の地。)

有群女,或稱華陽姑,或稱青溪姑,或稱上仙子,或稱下仙子,若是者數輩,皆侍從數千,冠翠鳳冠,衣金霞。綵碧金鈿。目不可視。遨遊戲樂,往來其門,爭以淳于郎為戲弄。風態妖麗,言詞巧艷,生莫能對。
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(
南柯郡を治め栄華を極めた。)
王謂生曰:「南柯國之大郡,土地豐壤,人物豪盛,非惠政不能以治之。況有周田二賛。卿其勉之,以副國念。」
夫人戒公主曰:「淳于郎性剛好酒,加之少年,為婦之道,貴乎柔順,爾善事之,吾無憂矣。」

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(そして20年の歳月が流れた。)

姻親二十餘年。
  :
(夢から覚めると、そこには槐樹の穴があるのみ。)

二使因大呼生之姓名數聲,生遂發寤如初,見家之僮僕,擁于庭,二客濯足于榻,斜日未隱于西垣。
餘樽尚湛于東
夢中忽。若度一世矣,生感念嗟嘆,遂呼二客而語之,驚駭,因與生出外,尋槐下穴。
生指曰:「此即夢中所驚入處。」

  :
(そこは蟻の帝国だった。)

中有小臺,其色若丹,二大蟻處之,素翼朱首,長可三寸,左右大蟻數十輔之,諸蟻不敢近,此其王矣,即槐安國都也。
   [「太平廣記」卷四百七十五 昆蟲三 淳于]

段成式は詩歌駢文に優れていたとされるが、詩歌が沢山残っている訳ではない。
本質的には思索の人なので、純情緒的な詩にならないから、どうしても敬遠されてしまうのではなかろうか。

そんな体質がわかるのが以下のお話。「酉陽雑俎」所収だが、「全唐文(卷0787)」にも掲載されているので、貴族官僚のあるべき姿として流布したのだと思われる。ただ、言い換えればそんな人はまずもっていないということ。
【韋斌傳】
韋斌雖生於貴門,而性頗厚質,然其地望素高,冠冕特盛。雖門風稍奢,而斌立朝侃侃,容止尊嚴,有大臣之體。毎會朝,未常與同列笑語。舊制,群臣立於殿庭,既而遇雨雪,亦不移歩廊下。忽一旦,密雪驟降,自三事以下,莫不振其簪裾,或更其立位。獨斌意色益恭,俄雪甚至膝。朝既罷,斌於雪中拔身而去,見之者鹹嘆重焉。 [續集卷3 支諾皋下]
天賦の性質として"質厚"にして実直。朝會でお隣と笑い話に興ずるようなこと無し。雪が降っても、直立姿勢を崩さずにいたから、朝礼終了時には膝まで雪に埋まっていたと言われるほどの真面目人間。
それを見た人は感嘆あるのみで、重んじるべき方と見なした。

読む方は、どうしてもこうまとめたくなるのだが、ココでの本質は、高官を輩出する家の出身で期待される人材とされていたという点。しかし、家風としては、豪奢好み。
"にもかかわらず"、出仕すれば謹厳そのもの。いかにも大臣の風体ということ。
成式はこうありたかったのである。あるいは、自画像と考えていたかも。それはあながち自惚れでもないのは確か。そうでなければ、内容的にはそれぞれのジャンルの膨大な類書と比べれば情報貧困な本でしかない「酉陽雑俎」が残っている筈などないからだ。

次は、韋斌傳の後半の部分。その兄の体質を描いているのだが、こちらは矢鱈に詳しい。反面教師として力が入ったのだろう。どのように映るのか大いに気になった訳である。
読者もココは余さずしっかり読めということか。折角だから、従ってみるとしよう。
【兄 韋陟傳】
斌兄陟,早以文學識度著名於時,善屬文,攻草隸書,出入清顯,踐崇貴。自以門地才華,坐取卿相,而接物簡傲,未常與人款曲。衣服車馬,猶尚奢移。侍兒閹豎,左右常數十人。或隱幾頤,竟日懶為一言。其子饌羞,猶為精潔,仍以鳥羽擇米。毎食畢,視廚中所委棄,不啻萬錢之直。若宴於公卿,雖水陸具陳,曾不下箸。
毎令侍婢主尺牘,往來復章未常自,受意而已。詞旨重輕,正合陟意,而書體遒利,皆有楷法,陟唯署名。嘗自謂所書“陟”字如五雲,當時人多仿效,謂之公五雲體。嘗以五彩紙為緘題,其侈縱自奉皆此類也。
然家法整肅,其子允,課習經史,日加誨勵,夜分猶使人視之。若允習讀不輟,旦夕問安,顏色必ス。若稍怠惰,即遽使人止之,令立於堂下,或彌旬不與語。陟雖家僮數千人,應門賓客,必遣允為之,寒暑未嘗輟也,頗為當時稱之。
然陟竟以簡倨恃才,常為持權者所忌。 
[續集卷3 支諾皋下]
韋斌の兄は早くから、その學識のレベルの高さで著名だった。
尊敬されたのは、その文章が素晴らしかったのと、達筆というだけでなく、草書と隸書を究明していたから。
問題は、その点での自負心が甚だしかった点。
高級官僚との交流も目だっていたし、貴族との交際も手慣れたもので、門閥的にも、才能からしても、いずれ卿相の地位に就くのは当然といった姿勢だったのである。
そんなこともあって、人に接するに、傲慢な態度を示す傾向があった。当然ながら、人に合わせるようなこともなかったのである。
外出する時の衣服車馬は豪奢を旨としており、つきそいのお小姓や、脇待は常に数十人。
一方、家に隠れている時といえば、机に顎をのせて、ひがな一日過ごし、面倒なので一言も口を開かない有様。(学生の講義室での机上居眠りとは訳が違うので、お間違いなきよう。「荘子」の"南郭子隱几而坐"の真似。)
食べ物には矢鱈うるさく選別し、潔癖症そのもの。鳥の羽でお米をより分けるほど。このため、毎食後の厨房での廃棄物は価値にして萬錢どころの話ではなかった。
公卿との宴席を設ければ、山海の珍味を並ばせることになるが、自分では箸さえつけなかった。
書簡用木札の扱いも奴婢に命ずるだけで、往復の手紙にしても直接目を通さず、意図を受け取るのみ。しかし、その詞は要点を押さえている上に、伝えたいことをしっかりと記載してあった。書体も立派であり、楷書の書法通りで、本人が署名するだけで済んだ。
その「陟」と言う文字は五の雲のように美しいとされ、"公五雲體"と呼ばれ、真似が流行った。五彩紙の手紙の封緘用文字として使った訳だ。
・・・過剰な自意識と豪奢さが目に付く、こんな類いのことばかり。
しかれども、家での躾に関しては粛然としたもの。その子、允は經史が習得すべき課題とされていた。日々の勉学を勧め、夜分になると人にそれを視させていた。とどこおりなく、読習が進んでいれば、朝夕の挨拶で、ご機嫌な様子が顔に出た。それが、怠惰な調子とわかったとたん、人を使いに出して、学習中止。允は堂下で立たされ坊主の憂き目。あるいは、半月ばかり、一言も口をきかずとなる。
韋陟家の使用人は数千人にのぼった。しかし、門で来客に応対するのは必ず息子の允と決まっていた。寒かろうが、暑かろうが、それが中止されることはなかった。それを、当時、皆が賞賛していた。
しかれども、その偉そうな態度と才能への強烈な自負心から、特権的地位で悠々としている人達から忌み嫌われた。

コリャ、こうなるとまずいぞ、ということであろう。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.
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