表紙 目次 | ■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.4.11 ■■■ 蝌蚪文字境山西有石壁,壁間千余字,色黄,不似鐫刻,状如蝌蚪,莫有識者。 [卷十 物異] 蝌蚪(科斗)=オタマジャクシなにげない一行。 一応読むことは読むが、頭のなかを通り過ぎていきそうな記述。怪奇話を読み続けていれば、ヘンテコな文字があるヨ、といった話など、どうという話でもないように映るからだ。 実は、コレ、「酉陽雑俎」にとっては、奥が深い話。 もしも、この異文字話が信用できそうにないなら、成式は伝聞形式にして、ソースも示している筈だ。それなら、これは良く知られた場所かといえば、そういうことでもないようだ。(鏡山は常識的には一枚岩の一般名称。当然ながら、今村与志雄注は無い。) つまり、ここはなんらかの「事実」を淡々と記載しているだけ。 さすれば、そこから、何を言いたいのか、気になるではないか。 焚書に抗して、消された書を復活させようとの意気を感じさせる題名からすれば、それは自明とはいえまいか。 このオタマジャクシ文字は怪奇現象の結果ではなく、異端とされ、火炙りの刑を宣告された文字の名残。そのことを少しは考えて見たら、と言っているにちがいないのである。 と言っても、そんなことに気をかける人がどの位いるかはなんとも。 ただ、【科斗文字】が全く話題にならないということでもない。 「謝曹子方惠新茶」 宋 蘇軾 陳植文華斗石高,景宗詩句復稱豪。數奇不得封龍額,祿仕何妨似馬曹。 嚢簡久藏【科斗字】,劍鋒新瑩鷿鵜膏。南州山水能為助,更有英辭勝《廣騷》。 思うに、成式の言う「境山」とは、浙江省台州市仙居県淡竹郷尚任村の韋羌山。その山頂からの絶壁"蝌蚪崖"に文字が彫られているのである。 成式の時代も、現代も、国家の基本は異端抹消。「科斗文字」は話題としてはえらく不適当。サラリと触れるにしくはなし。 特に、この文字の場合、偽書と絡むからイメージが悪い。そこらを説明しておく必要があろう。・・・ 東晋元帝[在位317-322年]期に"孔伝"の古文「尚書」が突然奏上された。それ以前になかった"秘"書が民で発見されたとのふれこみ。その書には、全巻にわたって、前漢の経学者 孔安国の注解付き。しかも、今迄知られていなかった25篇の経文も収載とくる。 現在の定説では、この両者ともに偽作。 但し、成式の頃に、そのような疑問が持ち上がっていた訳ではない。ただ、文体にうるさい人なら、新発見部分の書き方には違和感を覚えた筈だが、偽書との追求はしなかったであろう。 厄介なことに、その注に【科斗文字】が登場するのである。・・・ 至魯共王好治宮室,壞孔子舊宅,以廣其居,於壁中得先人所藏古文虞夏商周之書及傳《論語》、《孝經》,皆【科斗文字】。王又升孔子堂,聞金石絲竹之音,乃不壞宅,----- 正義曰:欲云得百篇之由,故序其事。漢景帝之子名餘,封於魯,爲王,死謚曰共。存日以居於魯,近孔子宅。好治宮室,故欲裒益,乃壞孔子舊宅,以撩A其居。於所壞壁内得安國先人所藏古文虞夏商周之書及傳《論語》、《孝經》,皆是【科斗文字】。 [漢孔安國傳 唐孔穎達疏 尚書注疏卷第一] 要するに【科斗文字】は偽書で初めてとりあげられたことになり、どうしても胡散臭さがつきまとうことになる。 しかし、注意を要するのは、この文章が作り話としても、【科斗文字】そのものがでっちあげとは言えない点。 この、「孔伝古文尚書」を知らない筈がない成式先生も、あえてこの部分には知らん顔。"莫有識者"と記載したのである。面倒なことに巻き込まれても馬鹿馬鹿しいから、マ、正しい判断といえよう。 おそらく、韋羌山"蝌蚪崖"に彫られた文字は、完全に忘れ去られてしまった、いずれかの国の文字と見ていたと思われる。そうだとすれば、その直観の鋭さは脱帽モノ。 と言うのは、【科斗文字】とは違うが、似たような楚国文字の存在が明らかになったから。 ・・・それは1993年のこと。湖北省沙洋県紀山鎮郭店一号楚墓から出土した典籍の欠損無き竹簡[@B.C.300年]の書体が異質なものだったのである。(湖北省博物館蔵)奇妙な文字の存在は嘘ではなかったことが判明してしまったのである。そのことは、焚書と強制的籀化が徹底したものだったことを示している訳である。(秦の地域で使っていた甲骨文/金文の発展形である大篆[伝 周の太史籀作成]と、それを使いやすく整理した小篆[秦の丞相李斯による標準化]以外の文字は、トレースも残さず、すべて消し去られたのであろう。当然ながら、異端文字に関係する学者もすべて消し去られた筈。) このことは、戦国諸国では様々な文字が使われていた可能性大と言えよう。 多くの場合、それらの文字は壁に塗りこめられたに違いない。そして、年月を経て露見する。ところが、誰もが"奇怪"と感じるから、それは妖怪の仕業として、即座にすべて消される。 ただ、時々は出土して表面化することも。 齊建元初,延陵季子廟舊有湧井,井北忽有金石聲,掘深二尺,得湧泉。泉中得木簡,長一尺,廣一寸二分,隱起字曰“盧山道士張陵再拜謁”。木堅而白,字色黄。 [卷十 物異] こちらの話は、江蘇省丹陽市延陵鎮にある、呉国の季劄[B.C.576-B.C.484年]の廟である。現在も、観光客を惹きつける魅力がある名勝古蹟。 独特の景観のもとは廟前の"沸井湧泉"。そんな場所であれば、古代の木簡が見つかってもなんらおかしくなかろう。 ただ、その手の木簡がその後どの様に扱われるかは、成式先生お見通し。ただただ異端抹消に励む世界ができあがってしまったのだから。 従って、削り取る作業が至難な岸壁に異端とされた文字を書き込んだのは偉業以外の何物でもなかろう。なにがなんでも文化的墓標を残そうと苦闘した人々の結晶なのである。 そのような文字がいつの日にか陽光が当たるようになればよいナ、というのが「酉陽雑俎」の思想的基盤。 そうそう、字体の専門家もわからない木簡発見は、成式先生は気付いていた筈で、こちらの話はさしさわりがあるということだろう。 永明三年,兼尚書左丞。 時襄陽人開古冢,得玉鏡竹簡古書,字不可識。 王僧虔善識字體,亦不能諳,直云似是科斗書。 淹以科斗字推之,則周宣王之前也。 [南史卷五十九 列傳第四十九] 永明=南斉 武帝蕭賾の治世の年号[483〜493年] もちろんのことだが、西晋の荀勖[n.a.-289年]「汲冢書」に触れることもない。墓から出土した竹簡の古書らしいが、これも偽書という話があるが、実態がどうなっているのかは素人には汁よしもなし。 想像だが、こんな少量の筈がなく、ほとんどが消されたと見るべきだろう。残っているのは、為政者にとって都合のよい記載があったからと見た方がよかろう。 ついでに、漢字の標準化について。 秦代の基本テキストは漢字学習書「蒼頡篇」。籀化を解説したモト本があり、それを、異種漢字絶滅用書籍として編纂しただけ。要するに、小篆に合わない文字を一切取り除いた代物。[「説文解字」序はそう読める。] それに加えて、本の題名が示すように、伝説的な黄帝の"作書"官僚たる"蒼頡"に関する話を創作したようだ。(帝を支え国家を作ったのは、作車 作書 作稼 作刑 作陶 作城、の6官僚との思想に基づく。[呂氏春秋 君守篇]) 漢代には、こうした"漢字"の基本思想をより精緻にするために、「蒼頡篇」にさらに手を入れたたらしい。そして、それぞれの帝が増補を作成。しかして、"漢字"完成とあいなる。 各国がマチマチに文字を持っていたとすれば、竹挺と漆インク的なもので様々なものに文字を書いていた国があっておかしくない。そうなればオタマジャクシ文字になるのは必然。 墨がなかった初期の頃は、葦か竹のペンで、そても粘土あるいは葉に文字を描いていた。その発展形がインクとペンであり、もちろん、それは中華帝国の発明ではない。字体は、描く方法に大きく左右される訳で、周や秦は、甲骨占いの国であり、彫り文字に熱心だったからその方向に発展したということ。ただ、"発展"とは武力的強制による標準化を意味する。 (参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 2」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載. 酉陽雑俎」の面白さの目次へ>>> トップ頁へ>>> (C) 2016 RandDManagement.com |