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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.4.26 ■■■

諸悪莫作

白楽天は詩人として名をはせた割には、なかなかの政治的巧者である。左遷されたりはしているが、上手く生き残り、自ら言うように、恵まれた生活を送り長寿の部類で一生を終えた。
底辺で虐げられている人達が生む社会的構造への問題意識を持っていたのは間違いない訳だが、筆の力による無謀な戦いを挑むような挙には出なかった。
と言うか、碌な結果にならない動きと見れば避けるにしくはなし、という考え方なのであろう。
自分なりの大局観を持っていたといえそうだが、ももとも、ドグマに染まることをよしとしない性格だったのではないか。
なにせ、大流行の丹薬も試したりしていた訳で。もちろん、のめり込まずである。

成式も似たところがあるが、高級官僚の家柄だったから、その世界を子供の頃から知っていた点での違いが大きそう。

要するに、権謀術数の政治の世界がお好きではなかったということ。しかし、貴族や高級官僚と交際なくしては、官位はえられず、それを失えば零落間違いなしなのだから、そこを上手に綱渡りしていった人なのであろう。そこそこの官位がよろしかろう的に映る。
政治と距離を置きながら、インターナショナル感溢れたインテリ達とサロンを作って時代を生き抜いたのであろう。白楽天のように一般受けする作品ではなく、そんな人達の間で愉しめる作品を作ったのだと思われる。あくまでも品格重視。

そんな雰囲気の家だから、息子も音楽の道に走ったのではなかろうか。

ただ、両者ともに仏教徒である。
現代からみても、質的に高い人達といえよう。

そう思ったのは、以下の引用。・・・
相傳雲,釋道欽[714-792年]住徑山,
有問道者,率爾而對,皆造宗極。
劉忠州晏,嘗乞心偈。
令執爐而聽,再三稱
 “諸惡莫作,衆善奉行。”
晏曰:
 “此三尺童子皆知之。”
欽曰:
 “三尺童子皆知之,百老人行不得。”
至今以為名理。
  [續集卷四 貶誤]

予讀梁元帝《雜傳》雲:
“---沙門竺法行嘗稽首乞言,
域升高坐曰:
 ‘守口攝意,心莫犯戒。’
竺語曰:
 ‘得道者當授所未聽,今有八
彌亦以誦之。’
域笑曰:
 ‘八而致誦,百不能行。’
嗟乎!人皆敬得道者,不知行即是得。”
  [續集卷四 貶誤]

上記は、おそらく、ほとんど知られていない話である。
と言うと、誤解を与えるかも知れぬ。
「諸惡莫作,衆善奉行」は、禅宗とはどんな宗教なのか関心を持った人が最初に出会う言葉で、極めてポピュラーな言葉だから。
と言えば、おわかりだと思うが、この言葉が僧侶から発せられる"有名"なシーンが違うのである。・・・"白楽天と鳥道林[741-824年]和尚のやりとり"なのだ。

元和中,白居易侍郎出守郡,因入山謁師。
問曰:
 “禅師住處甚危險!”
師曰:
 “太守危險尤甚!”
白曰:
 “弟子位鎮江山,何險之有?”
師曰:
 “薪火相交,識性不停,得非險乎?’
又問:
 “如何是佛法大意?”
師曰:
 “諸惡莫作,衆善奉行。”
白曰:
 “三孩儿也解恁幺道。’
師曰:
 “三孩兒雖道得,八十老人行不得。’
白作礼而退。
  [「五灯会元」卷二]

成式の引用と、白楽天の逸話とウリなことがわかろう。違うのは、嘆息的な一行が最後に加わっているかいないか。
実に憎い、成式の所業とはいえまいか。
趣味的に読んでいる人だらけなのであり、ここでハハハとなるのである。笑えない人もいるかも知れぬが。

余計な解説をするのもナンだが、これは結構厄介な「偈の逸話」なのである。たいていはわかったような、わからないような説明でお茶を濁すだけのことが多い。余りにツンツルテンで行間を読むどころの話ではないから致し方ないのだが。
成式は楽天とは違い、あくまでもインテリ相手に書いている。つまり、ココは以下とどう違うのかネ?と語りかけているに違いないのである。・・・
言者不必有徳。何者?言之易而行之難。/言うは易し、行うは難し。」  [西漢 桓ェ:「鹽鐵論卷五」利議第二十七]

俗界はそもそも、善悪混交。そこで仏の真似をして善行に努めようではないか、という話でもなかろうということ。
そんな姿勢とは、"社会で決められた道徳律"の遵守を自分に押し付けている以上でもなければ、以下でもない。
それは、極めて自己中心的な発想なのだ。仏教が一番嫌う姿勢である。
しかし、そうとらえられかねない書き方になっている。成式はソコを指摘しているのである。

・・・道徳律追求野郎に落ちぶてしまうこと必至の馬鹿げた修行はどんなものかネ。それでは、最後には餓鬼道へ落ちるしかないのでは。
(仏教に帰依し、修行を積むということは、あくまでも自己否定の境地に入るべく、最良と思う道を進む以外に手はない。しかし、ソリャ、なかなかできるものではないよナ、ご同輩と語っているようなもの。)

ご参考に、この「七仏通誡偈」について記載されている箇所を引用しておこう。
惡行品第二十九
  諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教
諸惡莫作者。諸佛世尊教誡後人三乘道者。不以脩惡而得至道。皆習於善自致道跡。是故説曰諸惡莫作也。
諸善奉行者。彼修行人普脩衆善。唯自瓔珞具足衆徳。見惡則避恒脩其善。所謂善者。止觀妙藥燒滅亂想。是故説曰諸善奉行。
自淨其意者。心爲行本招致罪根。百八重根難解之結纒裹其心。欲怒癡盛慢慳嫉種諸塵垢。有此病者則心不淨。行人執志自練心意使不亂想。如是不息便成道根。是故説曰自淨其意也。
是諸佛教者。如來演教禁戒不同。戒以檢形義以攝心。佛出世間甚不可遇。猶如優曇鉢花億千萬劫時時乃有。是故如來遺誡教化。聖聖相承以至今日。禁*誡不可不脩。惠施不可不吾所成佛王三千者。皆由禁*誡惠施所致也。是故説曰是諸佛教。

  [竺佛念 譯:「出曜經」卷二十五]

どのように解釈すべきかは、浅学なので語れないが、一般的にはこんなところか。・・・
三業(身,口,意)の十悪(殺生,偸盗,邪淫,悪口,両舌,綺語,妄語,慳貪,瞋恚,邪見)を行ってきたことを懺悔して、さらなる悪行に染まらないこと。
そのために、善行功徳を積み重ねようという訳だ。
そのためには、信仰を深めて六根(眼,耳,鼻,舌,身,意)の清浄を図り、精進に努めることがなによりも重要。

こんな風に考えていくと、はたして仏教に宗教哲学があるのかとの疑問も湧いてくる。ここには存在論がさっぱり感じられないからだ。そんな面倒なことを考えずにひたすら生きろということのようにも思えてくる。
それとも関係するが、過去七仏[毘婆尸仏,尸棄仏,毘舎浮仏,拘留孫仏,拘那含牟尼仏,迦葉仏,釈迦牟尼仏]がともに守り続けてきたとされるという一節も宗教性に乏しい印象を与える。沢山の仏が言ったから真理であると言っているように聴こえるからだ。
悟りを開いたすべての仏がそう考えていると読み替えたところで、この印象はなんら変わることはない。

(引用) SAT大蔵経テキストデータベース@東京大学大学院人文社会系研究科 次世代人文学開発センター
(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 4」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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