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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.5.20 ■■■

奇形児の取り扱い

「酉陽雜俎」には"結合双生児"と思しき話が収載されている。
奇形児出産の話は近代社会になるとえらく嫌われるので、削られてしまうことが多い。
ところが、この本だけはそうはされず。おそらく、そこになんらかの思想性を見出したからではないか。貴重なものの見方ありと。

唐の時代、奇異な現象が発生すれば、吉か凶かは別として、それは天帝のメッセージとして解釈することになっていた。異形の子供が生まれるとその扱いには苦慮したに違いないのである。
多くの場合は、解釈がむずかしいので、その手の情報は闇に葬り去られていたと見てよかろう。

成式の書き方は簡素だが、ポイントをついている。

先ず、異形の子供が生まれたのは事実であることを語っている。それは、政治や宗教勢力が伝えている恣意的な作り話では無い、と。
確実な情報ソースと見なせる、真面目一筋の秀才が事実として確認したことを、イの一番に書いたのである。

秀才田覃雲:
太和六年
[832年]秋,涼州[陝西]西縣百姓妻産一子,
四手四足,一身分兩面,項上發一穗,長至足。
時朝伯峻為縣令。
   [續集卷三 支諾下]

今村与志雄の注によれば、県令職を務める"朝"氏の姓は漢人を意味すると。
場所は陝西。重要な指摘。
と言うのは、以下の話が知られているからだ。ざっと、見ておこう。
昔高陽氏,有同産而為夫婦,帝放之於之野。相抱而死。
神鳥以不死草覆之,七年,
男女同體而生。二頭,四手足,
是為蒙雙氏。
   [干寶:「捜神記」第十四卷]
大昔のこと。
タブーとされている兄妹婚
[あるいは姉弟婚]の夫婦がいた。
高陽に都した、黄帝の後を継いだは、この2人をの山野に追放したため、死亡してしまった。
ところが、神鳥が飛来し、不死草で亡骸を覆った。
その7年後。
男女一体で、頭が2つ、手足が4本の子供が生まれた。
これが蒙雙氏である。


の場所は様々な説があるが、甘粛辺りを指すのではないか。そこらの出自の部族の出生神話が兄妹婚なのであろう。
近親婚は遺伝子異常や劣勢遺伝発現、死産が多いとされるが必ずしも統計的に確認されているとも言い難い。
異形の子も、神とされるか、その逆とされるかは、ひとえに社会的なもの。もともとどのように考えられていたかはまるっきりわかっていない。
と言うか、少数民族が多数残っている地域では、同一トーテム内での婚姻を禁忌としているにもかかわらず、日本のように同母異父兄妹婚が公認されている国もあったりして、どうしてそのような違いが生まれるかの合理的な説明がなされていないからである。(聖徳太子や舒明天皇)それに、始祖は兄妹婚によって誕生との神話は珍しいものでもないし。

しかしながら、「捜神記」では、異形の子が生まれた理由を近親婚と見なしている。しかも、それを特定の氏族の伝承話と認定している。
・・・この書籍は、"神"の発祥分析を目的とした奇譚編纂本なので、このように考える訳である。

インテリ向けの思考書を狙っている「酉陽雜俎」とは端からスタンスが違うことにご注意あれ。
ここを間違えると、滅茶苦茶な見方になってしまうからだ。
例えば、この2書と、「山海経」を同列に扱ってはアカン。インプリケーション無しでの、こうした書の記載事項を並列的取り扱っても、ほとんど無意味。
この「山海経」だが、よく知られるように、その中身は、トンデモ怪奇譚だらけ。しかし、題名から明らかのように、あくまも地誌である。と言うことは、面白話をしたい訳ではなし、奇譚をただただ集めたものでもないのである。

例えば、9尾の狐とは単にそのような毛皮を作っただけの可能性が高い。各地域で最も立派な尾を持つ毛皮を集めてきて、1匹に統合しただけ。しかし、コレ、地誌的には重要な話なのだ。この地域の部族は狐をトーテムとしており、その9家が同盟を結んでいることを語っているようなものだからだ。文字で姓を表示する時代よりずっと以前の部族IDを表記していることになる。
同様に、人頭の虎と言われれば、えらく怪奇な想像をしているように映る。したがって、どうしても、荒唐無稽な話にされがち。だが、この書の目的を考えればなんの不思議もない。虎の毛皮にヒトのミイラの頭を取り付けたにすぎな"モノ"が、ここらの部族集合体の崇拝対象を記載されているに過ぎないからだ。つまり、虎をトーテムとする部族が連合体を形成するために偶像を作出したのである。おそらく、その祭祀をとりしきる巫が頭領だった可能性が高かろう。
殷の祖は玄島の卵が元という話と、本質的にはなんらかわるところはなかろう。偶像を作っているから、より先進的信仰と見ることさえできそう。

要するに、どのようなトーテム部族の地域なのかを記載しているに過ぎない。
と言っても残念ながら、「山海経」に記載されているすべての場所が特定できる訳ではない。しかし、重要なのは、明らかに実在している地域が記載されているという点。他は、わからなくなってしまっただけで、どれもこれも、何れかの地を示していると考える方が自然である。

そもそも、蛇身人頭始祖を怪奇とは呼ばず、それを漢民俗の信仰からくる神話と決めつける発想の方がおよそ馬鹿げている。何の証拠もなく、ただただ、そう暗記せよという、ご指示に従う社会ができあがっているということ。
「山海経」を怪奇譚集とみなすことに、何の違和感も覚えない人達が多いということは、そういう社会であることの証左でもある。しかも、それを肯定する自称インテリだらけだったりする。頭で考えることを嫌う社会ができあがっているということ。

成式の問題意識はその辺りにあったと見てよかろう。
すでに述べたように、「酉陽雜俎」は地誌ではないし、博物学的書でもない、と初めから宣言している訳で、胡散臭いインテリだらけの官僚社会のなかで、そこらの精神的暗部を一貫して指摘し続けているといえよう。
それはもちろん現代にも言えること。官僚組織に乗っかった独裁政治体制はもちろんのことだが、官僚以外のインテリだらけであっても、その体質が蔓延しているからだ。現代日本の方が、成式の頃よりひどいのではなかろうか。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 4」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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