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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.5.26 ■■■

真鍮の仏像

日本の白鳳時代の仏像は、銅と錫の合金である青銅/Bronzeの鋳造像に鍍金を施したもの。所謂、金銅仏。
しかし天平に入ると、塑像や乾漆像で、その後は露座や大型を除けば、木像がほとんど。

簡単に真鍮/Brassが手に入る現代は別として、日本では、真鍮は飾りには結構使っていたようだが、仏像に用いた話を耳にしたことがない。

この真鍮だが、銅と亜鉛の合金で現代では黄銅と呼ばれるが、かつては鍮石と表記されていた。もちろん、唐で広く用いられていた用語である。
極めて価値ある材料だったらしく、正倉院にも所蔵されている。銀の次ぎに高貴な金属とされていたのである。「新唐書 卷二十四 志第十四 車服」によれば、六品、七品服用香C飾以銀。八品、九品服用青,飾以鍮石。それ以下は、鐵、銅なのだ。
実際、渡来の珍しいモノのオンパレードのなかで、鍮石は、腕飾りにも使用されていた。・・・
  「相和歌辞 估客楽」「楽府古題序(丁酉) 估客楽」 元
  ---鍮石打臂釧,糯米炊項瓔。---


鍮石とは、いかにも、鉱石然とした言葉だが、それは、もともと、自然鉱だったということかも。ともあれ、この合金素材を「石」として西域経由で購入していたのは間違いないようだ。そう推定するのは、この合金を作る技術が普及したのは、ずっと後代だからである。(開放系坩堝での合金化は困難なので。)

驚くのは、日本では用いられなかったが、印度では仏像に使っていたのである。
玄奘:「大唐西域記」から、かなり大きな像というか、本当かいナと驚かされるほどの巨大仏に用いられていることがわかる。・・・
東有伽藍。此國先王之所建也。伽藍東有鍮石釋迦佛立像高百餘尺。 [巻第一 34 梵衍那国(バーミヤン)]
伽藍前左右各有精舍,高百余尺,石基磚室。其中佛像,衆寶莊飾,或鑄金、銀,或熔鍮石。二精舍前各有小伽藍。
伽藍東南不遠,有大精舍,石基磚室,高二百余尺。中作如來立像,高三十余尺,鑄以鍮石,飾諸妙寶。精舍四周石壁之上,雕畫如來修菩薩行所經事跡,備盡鐫鏤。
 [巻第五 羯若鞠闍国(カーニヤクブジャ)]
大城中天祠二十所,層臺祠宇,雕石文木,茂林相蔭,清流交帶。鍮石天像量減百尺,威嚴肅然,懍懍如在。《鹿野伽藍》---精舍中有鍮石佛像,量等如來身,作轉法輪勢。 [巻第七 婆羅斯国(バーラーナシー)]

おそらく、鍮石の産地は北印度古国の磔迦国。
---宜粳稻,多宿麥,出金、銀、鍮石、銅、鐵。  [巻第四 磔迦国(タッカ)]
何処を指すのかさっぱりわからぬが、パキスタンの首都イスラマバードの西にあるタキシラ仏教遺跡辺りだろうか。

となれば、唐朝も使っていたに違いないのである。
長安での仏像がどうなっているのを、寺塔記で見るとこんな具合。 [續集卷五 寺塔記上]
通常は、金銅仏。
安邑坊【玄法寺】---鑄金銅像十萬躯金,---
ところが、鍮石仏像も存在したのである。西域から、運んできた仏像の可能性もあろう。
常樂坊【趙景公寺】---華嚴院中,鍮石盧舍立像,高六尺,古樣精巧。---
大同坊【靈華寺】---堂中有於鍮石石立像,甚古。---


注意すべきは、成式が、これらの鍮石仏像を古き像とわざわざ指摘している点。あまりに貴重な素材なので、すでに仏像には用いられていないことを示唆していそう。
つまり、鍮石仏像は特別なものということ。要するに、消えて行く憂き目の像。そう思って、じっくりと観賞している訳だ。

そもそも、玄奘は大量の経典と共に、仏像も運んで来たのである。そのなかには、鍮石仏像もあった筈。しかし、それはイの一番に破壊されたに違いない。素材としての利用価値が余りに魅力的だからだ。マ、それ以外もすべて鋳潰されてしまった訳だが。

そうそう、バーミアンの鍮石大仏に至っては、大仏が存在した跡形さえわかっていない。ことごとく破壊し尽くされ、使えるものはすべて持ち去られたのであろう。
さすれば、後代の仏像荘厳用真鍮製飾り物とは、破壊された仏像を偲ぶものである可能性も。

成式は、そんな時代がいずれ来ると予想していたきらいがあろう。だからこそ、「酉陽雑俎」と題したのであり、執筆に力が入ったとも言えよう。

(参照) 成瀬正和:「正倉院宝物に見える黄銅材料」2007-5
(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 4」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.


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