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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.6.6 ■■■

銀河宇宙観

俗世間的な領域での天人の話が続いた。

天人といっても、所詮は俗界であるから、娑婆の欲を超越できる訳ではない。それができる世界は別次元とされており、そこが色界。されど、まだ身体という物質世界にすぎず、その先は純粋な思惟だけというのが、三界の概念。
特段、仏教の考え方としなくても通用しそうであり、わかり易いと思いがち。しかし、それは仏教国で育ったせいかも知れぬので注意が必要である。
天人の概念も同じことがいえよう。

おさえておくべきは、天人だろうが、鬼だろうが、人間も住む「俗界」に住んでいるということ。その姿には多少の違いがあったりするものの、基本は同じである。それはある意味当たり前で、死ねば鬼になったり、天人として迎えられたりするとの考え方なのだから当たり前と言えば当たり前。

従って、それぞれがどのように住んでいるか俯瞰図が必要となる。
それは、どうしても、漫画絵に近いものになりがちだが、概念とはそういうもの。
理解できる概念とは、すでに頭に入っている出来合いの概念のアナロジーで形成されているもの。そうでないものは、そう簡単にわかるものではない。
それを考えると、仏教が打ち出した数々の概念は新しいものだらけであり流石である。しかし、だからこそ、中華帝国では排除されたということでもあろう。

余計な話をしてしまったが、俗界の全体像を眺めておこう。

中央に須弥山がそそり立ち、円盤のような大海に囲まれている、というのがその姿。
その海には、東西南北に洲がある。この上に、色界が存在する訳だ。
その南の洲が贍部洲と呼ばれており、千の"閻浮提"がある訳だが、それがヒトが棲む世界。言ってみれば現代の地球概念。そんな一千個の小千世界が集まり、銀河世界というか、宇宙を形成するというのが仏教の思想。
この辺りを詳述した解説書はいくらでもあろう。
特に、"佛刹微塵數世界"「「大方廣佛華嚴經卷 第四十九 普賢行品第三十六」]は有名であり、現代物理学の概念と語られる場合もある位。

「酉陽雑俎」は、そこの"録異"を狙った書物であるが、要するに、釈尊の宇宙論の本質を簡略に語ってしまおうという試み。
確かに、特異である。

貝篇での紹介は以下の文章から始まる。
俗界は、色界から定義されるのであろう。

色界天下石,經十萬八千三百八十三年方至地。

有効数字5桁の数字を何故に必要とするのかは理解し難いものがあるが、概念自体は誰でもがなんとなく知っているような類のもの。
浄土教的には、こんな具合に記述されることになる。

もし四十里の盤石をもつて色究竟天より下すに、一万八千三百八十三年を経て、この地に到るべし。 ただちに下るすらなほしかり。
これを推して知りぬべし、声聞の飛行、如来の飛行は、展転して不可思議なることを。

   [源信撰:「往生要集 巻中 第五助念方法 」]

成式の話は、ここからポンと飛ぶ。
大宇宙から、ヒトには蟲が棲息するというところへ一気に。

閻浮提人生三肘半至四肘,骨四十五,脈十三,身蟲有毛燈血。禪都摩蟲流行血中。善色蟲處糞中,令人安樂。起根蟲飽則喜。歡喜_蟲能見衆夢,又有等。

修行者が感じているミクロの世界観と言えよう。身体の中に"蟲"がいて、血液と共に循環しているというのだから。

この書き方が秀逸。
反分析主義、反暗記主義であることがよくわかる。
基本知識が一通り備わっていないとお話にならないが、沢山の情報を頭に蓄えるだけではなにもわからんゾと言っているようなものだからだ。
概念ありきである。

このお話は、ヒトの生命活動を「蟲」が左右すると看破しているようなもの。義務教育で暗記させられる単細胞となんらかわらない。その個々の意思の集合体が、身体全体の調子を形作っていると、釈尊は見抜いていたのである。

さて、それと、十萬八千三百八十三年もの遠方にある色界の話とどう関係しているの?。・・・これが肝。
ハウツー本に囲まれて生活するようになると、このような投げかけに無力化しかねない。そもそも、どうでもよい話と感じてしまうだろう。
しかし、この手の疑問に対し、自分なりの答えを出すことこそが、創造力担保に繋がっているのである。現代社会は、創造力を棄てて生きようという人が主流であるから致し方ない流れではあるが。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 1」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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