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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.6.23 ■■■

三井寺"九乳鳧鐘"譚の元ネタ

「卷三 貝編」に「磬」の話が収載されている。

歴城縣光政寺有磬石,形如半月,膩光若滴。
扣之,聲及百裏。
北齊時移於都内,使人撃之,其聲杳絶。
卻令歸本寺,扣之,聲如故。
士人語曰:“磬神聖,戀光政。”

凄い磬石がある。
膩光滴るが如きで、叩くと音は100里に及ぶ、
北斉の時に都へ移してしまった。
ところが、いくら撃ってもさっぱり鳴らず。
元のお寺に戻して叩くと、前のように。
この楽器、寺を恋していたに違いなく、
そこに心在り、と士人は語る。

(叩けばなんだって音は出るが、常識的には、それを鳴っているとは呼ばない。バイオリンを考えればわかる筈で、まともな"聲"を出すには音響に合った環境と、優れた演奏者が不可欠というに過ぎない。)

光政寺についての情報は皆無のようだが、歴城縣とは山東の済南辺り。
今村与志雄注は、これ以外には、南方熊楠の指摘についての記載のみ。貝篇にしては、やけに寂しい。日本的な風情があるので、余計なことを言わないようにしたのかも。
そのため、フフ〜ン、同じような感情を抱くものだナ、で通り過ぎがち。しかし、こういう箇所こそ、掘れば必ずなにか出てくる可能性が高い。

そもそも、この地には龍山鎮の黒陶文化遺址があるのだ。しかも、舜が耕作と狩猟に勤しんだ歴山とされる観光地のベースでもある。
観光ビジネスになっているものは、話半分に聞いておいた方がよいが、ここらは古代の文化中心地であることは間違いない。

さて、南方熊楠の方だが、「太平記」十五巻の三井寺"九乳鳧鐘"譚がそっくりとの指摘。熊楠翁、その物語をながながと記載。・・・
  :
鐘は梵砌の物なればとて、
(俵藤太秀郷)三井寺へこれを奉る、
  :
文保二年、三井寺炎上の時、
この鐘を山門へ取り寄せて、
朝夕これを撞きけるに、
あへて少しも鳴らざりける
  :
破われよとぞ撞きたりける、
その時この鐘、海鯨の吼ゆる声を出して、
三井寺へ往かふとぞ鳴いたりける、
  :
数千丈高き岩の上をば、転ばかしたりける間、
この鐘微塵に砕けにけり、
  :
今は何の用にか立つべきとて、
そのわれを取り集めて、本寺へぞ送りける、
  :
一夜の内にまた本の鐘になつて、
疵付ける所一つもなかりけり

(寄進を一手に集めている三井寺中枢勢力が気に喰わないので鐘を破壊しただけ。鋳造技術が今一歩だったので簡単に割れたのである。呪われてもこまるので、破片は返却。すでに鋳造プロジェクト推進中だったから、材料はそのまま使われ、すぐに復活したとの話。)

上記はもちろん小生の恣意的な抜書き。この論文における熊楠翁の関心はあくまでも十二支の「龍」なのだが、そこは全面的にカットした。実は、鐘自体が龍由来なのである。
要するに、成式は龍の「磬」であることを、恣意的にカットして記載した可能性が高いのである。

何故に、そう思うのかといえば、謡曲「海人」ありき。

そこで詠われているお宝が2つの「磬」と"釈迦像が正面にみえる珠"だからだ。日本から妃を迎えるに当たって、唐の高宗が宮廷所蔵品を興福寺に贈ったというのだ。その珠が龍に奪われ、取り返すというストーリー。
中華帝国とは違い、日本の場合は、時代の荒波に洗われようが、先ず間違いなくそのようななんらかの由来がある品は誰かが大切にとっておくもの。
そう、その「磬」が現存しているのである。
  [国宝]「銅造華原磬」(総高96.0cm)@興福寺国宝館
  素晴らしい銅細工の枠(龍)に金鼓(後世補作)
  「石造泗濱浮磬」(璧山玄玉 総高42.7cm)@興福寺国宝館
  山東名産泗水の玄玉製雲磬(法器)

思うに、この「泗濱浮磬」、妙聲で知られる光政寺所蔵品だったのと違うか。

(引用) 南方熊楠:「田原藤太竜宮入りの話」1916年@青空文庫
(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎 1」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.


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