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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.7.8 ■■■

道教の対蛇施策

ようやくにして、「酉陽雑俎」の中味が色々わかってきたので、蛇話をしてみよう。

許遜[239-374年]は晉代の淨明道閭山派の開祖で、旌陽敬之。
巫術により、華南一帯で一世風靡した道士だが、禅宗、浄土宗、密教についても、その儀式的様相を取り入れることで習合を図った模様。現代感覚だと、なかなかの策士となるが、そう見ない方が本質に迫れる。・・・道教とは思想的基盤や明瞭な倫理がある訳ではなく、時の権力と整合性がとれる形で、不老長命を願う土着信仰を融合しただけのもの。論理は後からついてくる。つまり、許遜も自然体で布教していたに過ぎまい。

その老師は「家貧,榻無帷帳,毎夏夜,蚊多膚。---夏夜無帷帳,蚊多不敢揮。恣渠膏血飽,免使入親幃。」@《二十四孝》とされる呉猛。
どう見ても、儒教的な雰囲気を取り込んでいる道士である。

この両者が登場する蛇退治の話が収載されている。

晉許旌陽,呉猛弟子也。
當時江東多蛇禍,猛將除之,選徒百余人。
至高安,令具炭百斤,乃度尺而斷之,置諸壇上。
一夕,悉化為玉女,惑其徒。至曉,呉猛悉命弟子,無不涅其衣者,唯許君獨無,乃與許至遼江。
及遇巨蛇,
呉年衰,力不能制,許遂禹歩敕劍登其首,斬之。
 [卷二 玉格]

華南地区はほとんどが亜熱帯モンスーン気候地帯。そうなれば、どこにいるかわかったものではない蛇や、水に隠れている鰐は活発に動き回っている筈で、その被害は相当なものだったのは間違いあるまい。
従って、古代のここらの土着民["百越"]の主流は蛇あるいは鰐のトーテム/圖騰だった可能性が高かろう。蛇の場合は、人首蛇身がその表象となり、祭器には必ず蛇紋様が付く。漁民だと鰐文身だろうが、非漁民はそれを真似た蛇刺青も多かったろう。

中華帝国樹立のためには、こうしたローカルな信仰は桎梏以外のなにものでもない。天子の命に従う必然性がゼロだからだ。
そうなれば、道教としては、蛇を邪悪なものと見なし、それを成敗すべしという方向に進むしかない。
蛇神から天子の龍神に替えるべく、注力することになる。
呉猛は、力を尽くしたが今一歩のところで引退モードに入り、それを継いだ許遜が、ようやくにして軌道に乗せたというのが、成式が引用したお話であろう。

以下、素人解説。

冒頭で述べたように呉猛は儒教的倫理を拡宣した。中華帝国確立に不可欠な思想的基盤作りの流れに乗ったということ。
蛇退治も、その流れに位置付けられていたのは間違いない。しかし、それは、直接的に蛇から天子の龍への転換を即すものではなかったのである。
というか、そこまで踏み切れなかったのであろう。

出典を見ると、その辺りの状況がわかってくる。
大蛇を蜀の精と見なしたのである。古代越人の蛇信仰は一切語らずに、蛇殺しは、蜀賊を征服することなり、と主張したのである。・・・

永嘉末,豫章有大蛇。長十餘丈。
斷道,經過者,蛇輒吸取之,噬已百數。
道士呉猛與弟子殺蛇,
猛曰:
 「此是蜀精,蛇死而蜀賊當平。」
既而果杜滅也。
  出《豫章記》
 「太平廣記巻456 蛇一 呉猛」

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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