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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.8.16 ■■■

壺丘子の人相拝見

壺丘子林とは列子が敬服していた師。
列子は、齊から鄭に移ってきた、神巫の季鹹に心醉した旨を、師に告げる。
そこで壺丘子は、連れてくれば会おうということに。そこで人相見が行なわれることに。
そんな話が収録されている。・・・

予按《列子》曰:
“有神巫自齊而來,處於鄭,命曰季鹹。列子見之心醉,以告壺丘子。
 壺丘子曰:
  「嘗試與來,以吾示之。」
 明日,列子與見壺丘子。
 壺丘子曰:
  「向吾示之以地文,殆見吾杜コ機也。」
 嘗又與來,列子又與見壺丘子。
 壺丘子曰:
  「向吾示之以天壤。」
 列子明日又與見壺丘子,
 出曰:
  「子之先生不齊,吾無得而相焉。吾示之以太沖莫朕。」
 嘗又與來,明日又與之見壺丘子,立未定,失而走。
 壺丘子曰:
  「吾與之虚而猗移,因以為方靡,因以為流波,故逃也。」”

   [續集卷四 貶誤]

ここまで、ストーリーをスリム化されると、列子の当該話を知らないと何が何やらである。
《列子》の元ネタの箇所をしっかり見ておく必要があろう。

【大分前】有神巫自齊來處於鄭,命曰季咸,知人死生、存亡、禍福、壽夭,期以、月、旬、日,如神。鄭人見之,皆避而走。
列子見之而心醉,
【前日】而歸以告壺丘子,曰:
 「始吾以夫子之道為至矣,則又有至焉者矣。」
壺子曰:
 「吾與汝無其文,未既其實,而固得道與?
  衆雌而無雄,而又奚卵焉?
  而以道與世抗,必信矣。夫故使人得而相汝。
  嘗試與來,以予示之。」
【初日目】明日,列子與之見壺子。
出而謂列子曰:
 「!子之先生死矣,弗活矣,不可以旬數矣。
  吾見怪焉,見濕灰焉。」
列子入,涕泣沾衿,以告壺子。
壺子曰:
 「向吾示之以地文,罪乎不不止,是殆見吾杜コ幾也。
  嘗又與來!」
【2日目】明日,又與之見壺子。出而謂列子曰:
 「幸矣,子之先生遇我也,有矣。
  灰然有生矣,吾見杜權矣。」
列子入告壺子。
壺子曰:
 「向吾示之以天壤,名實不入,而機發於踵,此為杜權。
  是殆見吾善者幾也。
  嘗又與來!」
【3日目】明日,又與之見壺子。
出而謂列子曰:
 「子之先生坐不齋,吾無得而相焉。試齋,將且復相之。」
列子入告壺子。
壺子曰:
 「向吾示之以太沖莫,是殆見吾衡氣幾也。鯢旋之潘為淵,止水之潘為淵,流水之潘為淵,濫水之潘為淵,沃水之潘為淵,水之潘為淵,雍水之潘為淵,水之潘為淵,肥水之潘為淵,是為九淵焉。
  嘗又與來!」
【4日目】明日,又與之見壺子。立未定,自失而走。
壺子曰:
 「追之!」
列子追之而不及,反以報壺子,曰:
 「已滅矣,已失矣,吾不及也。」
壺子曰:
 「向吾示之以未始出吾宗。吾與之虚而猗移,不知其誰何,因以為茅靡,因以為波流,故逃也。」
【その後】然後列子自以為未始學而歸,三年不出,為其妻爨,食如食人,於事無親,雕復朴,塊然獨以其形立;紛然而封戎,壹以是終。 [「列子」卷第二黄帝篇]
【大分前】
鄭に、齊から来た神巫がいた。名を季咸と。
人の死生存亡、禍福壽夭を知っていた。
期するに、年月旬日を以てする様は、まるで神のよう。
そこで、鄭の人々は、皆、捨てて走って行った。
これを見た列子は季咸に心酔してしまった。
【前日】
そこで、帰ってきた列子は早速に壺丘子に告げる。
 「始め、小生は、夫子の道こそが究極と考えておりましたが、
  それを越える者がおりました。」
そこで、壺丘子は、言った。
 「私は、あなたと共に、文を読み込みましたが
  未だに、その実が成らない状況のようです。
  あなたも、道を得たと確信している訳ではないでしょう。
  衆雄だらけでも、衆雌なければ、
  卵など生まれないのはわかりきったこと。
  道を以て、世と抗し、夫子たることを信じる必要がありましょう。
  つまり、人を介して、あなたは気相させられたということ。
  ここは、試しに、ご一緒に来られ、私にソレを示してご覧。」
【初日】
その翌日、列子は季咸を連れ、壺丘子を見てもらう。
終わって出ると、季咸は列子に言った。
 「これは大変!君の先生は死ぬ。
  お迎え寸前の状況だから、10日と持たぬ。
  吾輩の見立てでは、全く生気を失っており、
  湿気り切った灰の如し。」
列子はこれを聞いて泣いてしまった。
襟を涙で濡らして、列子にご報告。
壺子は、言った。
 「私が示したのは"地文"。
  全く動きがなく、止まっている状態にしたのだ。
  見れば、生きているかわからぬから、最期に見えたのだ。
  又、おいで。」
【2日目】
その翌日、列子と季咸は再び壺丘子を見た。
出てから、季咸は列子に行った。
 「幸なるかな。吾輩と会って先生は良くなったゾ。
  生気が有るから、もう大丈夫。」
壺子は、言った。
 「私が示したのは"天壤"。
  えも言われぬな気分を踵から湧きあがらせたのだ。
  それを見て、そんなことを言ったのである。
  又、おいで。」
【3日目】
その翌日、列子は季咸を連れてやってきた。
出てから季咸が列子に言った。
 「あなたの先生は形相が安定していない。
  これでは吾輩も相を見立てることはできぬ。
  相が安定したら、再び見ることにしよう。」
と言うことで、列子は師にその旨報告。
壺丘子は、言った。
 「私が示したのは"太沖莫"。
  平衡状態の静かなる気を出したのである。
  言わば、私は淵のようなもの。
  大魚が暴れ回る淵、止水明鏡的な淵、
  流水激しき淵、乱流治まらぬ淵、---
  といった具合に9種類もあるのだ。
  と言うことで、又、おいで。」
【4日目】
その翌日も、列子は季咸を連れてきた。
季咸は壺丘子の顔を見たとたん、茫然と立ちつくし、自失状態で走って逃げ出した。
壺丘子は、言った。
 「追え!」
列子追えども及ばず。戻って報告。
 「影も見えず、見失ってしまいました。
  私としては、もう、なすすべがございません。」
壺丘子は、言った。
 「私が示したのは"未始出吾宗"。
  自分の存在を無くし、なすがままの状態にしたのだ。
  風のように、又、水のようにと、
  相手に応じて変化するのである。
  それを見れば、なんだかさっぱりわからなくなる。
  アヤツは、そこで恐ろしくなり逃げ出したのである。」
【その後】
そんなことで、列子は自らの未熟さを思い知り、学問を始めからやり直すため、家に帰ることにした。
そして、3年もの間、引き籠り。
妻のために自ら炊事。豚を飼うのも人を飼うような姿勢。事が起きても、他の人とどうこうすることもなし。飾ったり、名を挙げる発想から遠ざかり、ただただ単独無為の生活に徹した。
そして、そのママを貫き、一生を終えたという。


この話を踏まえ、成式は以下のコメントをつけたのである。・・・

予謂諸説悉互竄是事也。
如晉時有人百擲百盧,
王衍曰:「後擲似前擲矣。」
蓋取於《列子》均後於前之義,當時人聞以為名言。
人之易欺,多如此類也。

   [續集卷四 貶誤]
成式考えるに、列子について諸説あれども、どれもこれも互いに改竄しあっているとしか思えぬ。
例えば、こういうこと。
晋の頃だが、ある人が博戯で100回投擲したら、100回とも盧がでたという。
王衍[256-311年:西晋の政治家]はこれを評して、「後の投擲は、前の投擲に似ている。」と。
この言は、おそらく《列子》の"後於前之義"を持ってきたのである。当時の人々は、これを聞いて、けだし名言とか。
人々が欺かれ易いのは、この手の類のことが多い。


《列子》の言とは、百本の矢を次々と射れば、二本目、三本目と、間髪を入れず飛んでくる矢の鏃は、前の矢の括に突き刺さっていくとの話。
技を磨けば、前の矢と全く同じ条件で連続的に矢を放つことができるので、同じ結果をもたらすにすぎまい。古代のこのような専門家とは、現代のオリンピック優勝者のレベルを越える力量があってもおかしくないのだから、奇譚と考えるべきではなかろう。・・・
公子牟曰:「智者之言固非愚者之所曉。後鏃中前括,鈞後於前。」
  [「列子」卷第四仲尼篇]

もともと、列子禦寇は弓の名人。水盃を肘に置き、"發之,鏑矢復沓,方矢復寓"という超人的技を、師の伯昏無人に見せつけたこともある。しかし、師にそれは単なる技巧と一蹴されてしまう。(結局、断崖絶壁で弓を射ることができるか試され、自分がその程度の力しかないことを思い知らされる訳だが。)
列禦寇為伯昏無人射,引之盈貫,措杯水其肘上,發之,鏑矢復沓,方矢復寓。當是時也,猶象人也。伯昏無人曰:「是射之射,非不射之射也。---」
  [「列子」卷第二黄帝篇]

そうそう、王衍[256-311年]は、成式が一番軽蔑していたタイプでは。
と言うか、上記のような列子の態度を知りながら、その時々のご都合で、歪めて解釈する人だらけなのが不快極まるということだろう。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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