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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.8.23 ■■■

謝聖公

浅学の身には難しくて、手も足も出ない歴史モノらしき怪奇譚をとりあげてみたい。

晉隆安[397-401年]中,呉興[@浙江]有人年可二十,
自號聖公,姓謝,死已百年,
忽詣陳氏宅,言是己舊宅,可見還,不爾燒汝。
一夕火發蕩盡,
因有鳥毛插地繞宅,周匝數重,百姓乃起廟
  [卷十四 諾皋記上]
東晋の隆安年間、呉興での話。
二十才くらいの若者がいた。
自ら号して聖公、姓は謝と。
さらに、死して已に百年なり、とも。
しかるべくして、陳氏のお宅辺りに詣でたのだが、
そこで言うことには、
 「ここは小生の旧宅だったナ〜。
  返してもらおうかネ〜。
  駄目なら、汝を焼くしかないカ。」
その晩、火が出て家は焼け落ちてしまった。
その焼け跡の地に、烏の羽毛が刺さっていた。
しかも、家の周囲を数重にも囲んで。
土地の百姓達は、そこに廟を建ててお祀りしたのである。


百年前ということは、西晋の"八王の乱"の頃である。

魏から禅譲を受けた司馬炎/武帝が晋を建国したのが265年のこと。280年には呉を滅ぼし統一にこぎつけた。しかし、290年に継いだ息子の司馬衷/惠帝が暗愚だったため、実権は楊太后に。このため、賈后が実権奪取に動くことになる。早速の死闘。
武帝は、惠帝の妾が産んだ、幼児期に聰明そのものだった司馬/愍懐太子[278-300年]が即位する迄のつなぎ期間でしかないと考えていた節があるが、その目論見は脆くも外れ、一族内紛勃発に至ったのである。
なんと、武帝死後10年にして、疼愛していた、この孫も撲殺される。もちろんのことだが、その母である謝玖も殺害されてしまう。謝家は貧民とされるが、玖は聡明にして美人とか。尚、司馬の子は、司馬[299年に病死]、司馬臧[297-301年]、司馬尚[300-302年]である。

こうなると、"謝聖公"とは、謝玖の子である愍懐太子と考えざるを得まい。
ただ、そうだとすると、もともと呉の中心地である呉興に家があったとは思えないが。(呉興とは、「絹の府、魚米の郷、文物の宝庫」と呼ばれた湖州。)

一方、焼け落ちた家に住んでいたと思われる陳氏だが、西晋代に登場する陳姓としては、司馬一族の南陽王だった司馬模〜司馬保に仕えた武将の陳安[n.a.-323年]があげられる。司馬保のお気に入りだったらしいが、反旗を翻して挙兵したこともあるから、実直に支えていたとはいいかねる人物。316年に西晋が滅亡したので、319年に司馬保が普再興を目指して挙兵したが、その際も呼応せずに、前趙に帰順している。
東晋の時代に入ると、北から陳一族が流入したようだ。土着勢力を抑えて、次第に支配力を強めていったと見られている。

マ、素人が読めそうなのはここら辺り迄。

それはそうだとして、結局のところ、この怪奇譚はナンナンダ?、と尋ねられても、残念ながらお返事はできかねる。

どうしても、言わねばならぬとなれば、暗愚の天子を抱えるとトンデモないことになることを忘れるな、となろうか。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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