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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.10.6 ■■■

文宗病没年の奇譚

どのような自然現象なのかわからないが、奇異なことがおきたとの報告があったのだろう。
たったの一行の記載。・・・

開成末,
河陽黄魚池冰作花如纈。
  [卷四 物革]
開成年代の末のこと、
河陽の、とある黄魚の養魚池に氷
[=冰]が張った。
絵模様さながらの風景が出現。
[纈=絞り染めの布]

そんな話など、おそらく五万とあった筈だが、そのなかからどうしてこの奇譚がピックアップされたかを考えることが、この本の読み方。

先ずは、発生した時点だが、開成は唐朝文宗期の2つ目の年号で、836-840年。つまり840年の冬ということになろう。
この年の2月、文宗は大明宮太和殿で崩御。病死。享年32歳である。

その文宗/李昂だが、帝位についたのが827年。敬宗が劉克明により殺害されたからである。その対抗勢力の王守澄によって擁立されたと言われており、事実上、宦官傀儡政権の誕生である。
もちろん、実権回復のために動く。831年、835年と、宦官討伐を図ったのだが結局のところ失敗。幽閉の憂き目。

次に、河陽の地について。
ココは、「王狩河陽」[「春秋」]で知られる。
晋候の文公が632年に河陽で狩をした話のこと。もともと、河南 温で諸侯の会合を企画したのだが、自分の力ではどう見ても衆参は難しいと見て、狩猟にかこつけた策を弄したとの故事。周の襄王に使節を派遣して、河陽での狩猟をお願いし、それを諸侯が見物するような状況をつくり、自分が諸侯を率いてご挨拶の形がとれると踏んだのである。
史書に、「遂率諸侯朝王於踐土」と記載可能だからだ。

コレ、中華帝国の根本思想に反する行状である。
諸侯が王を呼びつけた行事にほかならず、帝が行う視察とは正反対だからだ。
・・・意味深長。

と言うのは、文宗の言葉が、「資治通鑑」第二百四十六卷に記載されているからだ。
 「周の赧王や漢の献帝は
  強い諸侯に制せられ受忍したに過ぎないが、
  朕は家奴に制され受忍させられている!
」と。・・・
開成四年---
乙亥,上疾少間,坐思政殿,
召當直學士周,賜之酒,
因問曰:
  「朕可方前代何主?」
對曰:
  「陛下堯、舜之主也。」
上曰:
  「朕豈敢比堯、舜!
   所以問卿者,何如周赧、漢獻耳。」
驚曰:
  「彼亡國之主,豈可比聖コ!」
上曰:
  「赧、獻受制於強諸侯,今朕受制於家奴,
  以此言之,朕殆不如!」
因泣下沾襟,伏地流涕,自是不復視朝。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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