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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.10.12 ■■■

賈耽の道教的体質

長く宰相を務めた賈耽[730-805年]は、様々な役職も経験した[玄宗,粛宗,代宗,徳宗,順宗,憲宗代を生きた]政治家である。地理学書の著作でも知られ、博識ということになっている。
しかし、この手の人の"博識"とは、朝廷への使節や、派遣帰国者からの聞き取りに依存したもの。ママ情報をご都合主義的にまとめた政治的な著作でしかなかろう。

そう思うのは、道教政治家の典型的タイプとして、"魔女狩り"的逸話が収録されているからである。

そんな話は沢山あったようで、岡本綺堂:「中国怪奇小説集芝田録」"紅衣の尼僧"@青空文庫にも類似の話が掲載されている。
周りのものにはさっぱり理解できない命令だったが、災害をもたらす妖怪がヒトの姿でやってくるから即刻「殺せ!」という意味だったと後でわかったとのストーリーである。
もちろんのことだが、妖怪とは、"変った色の人間"というにすぎない。

なんであろうと、上意下達ありきで、洞察力を発揮させないことを旨とする社会であることがよくわかる。つまり、成式的に、自分の頭で物事を考えてみたり、多面的な知識を愛するお人は異端者扱いされるのである。

説明するより、「殺せ!」の話をお読み頂いた方が早かろう。ママでこの項を引用させていただこう。・・・

唐の宰相の賈耽が朝よりしりぞいて自邸に帰ると、急に上東門の番卒を召して、厳重に言い渡した。
「あしたの午ごろ、変った色の人間が門に入ろうとしたら、容赦なく打ち叩け。打ち殺しても差し支えない」
 門卒らはかしこまって待っていると、翌日の巳の刻を過ぎて午の刻になった頃、二人の尼僧が東の方角の百歩ほどの所から歩いて来た。別に変ったこともなく、かれらは相前後して門前に近づいた。見ればかれらは紅白粉をつけて、その艶容は娼婦の如くであるのみか、その内服は真っ紅で、下飾りもまた紅かった。
「こんな尼があるものか」と、卒は思った。かれらは棒をもって滅多打ちに打ち据えると、二人の尼僧は脳を傷つけ、血をながして、しきりに無罪を泣き叫びながら、引っ返して逃げてゆく。その疾ときこと奔馬の如くであるのを、また追いかけて打ち据えると、かれらは足を傷つけられてさんざんの体になった。それでも百歩以上に及ぶと、その行くえが忽知れなくなった。
 門卒はそれを賈耽に報告して、他に異色の者を認めず、唯かの尼僧の衣服容色が異っているのみであったと陳述すると、賈は訊いた。
「その二人を打ち殺したか」
 脳を傷つけ、足を折り、さんざんの痛い目に逢わせたが、打ち殺すことを得ないでその行くえを見失ったと答えると、賈は嘆息した。
「それでは小さい災いを免かれまい」
 その翌日、東市から火事がおこって百千家を焼いたが、まずそれだけで消し止めた。


要するに、トップは異端の輩が来るから、それを「殺せ!」と言っているだけ。言われたプロフィールに一番合っていそうなヒトを見つけ、現場が勝手に殺戮する仕組み。流石に、殺すのは気が引ける場合は、逃げたら深追いせずとなるだけ。

成式は、流石に、そのような話を避けたようで、政治家としての成果話の方を取り上げている。
道教政治がどのようなものかがよくわかる。・・・

賈相公[賈耽]在滑州@河南,境内大旱,秋稼盡損。
賈召大將二人,
謂曰:
 “今荒旱,煩君二人救三軍百姓也。”
皆言:
 “利軍州,死不足辭。”
賈笑曰:
 “君可辱為健歩,乙日當有兩騎,衣慘緋,所乘馬蕃歩鬣長,經市出城,
  君等蹤之,識其所滅處,則吾事諧矣。”
二將乃裹糧衣p,行尋之,一如賈言,自市至野二百余裏,映大冢而滅,遂壘石標表誌焉。
經信而返,賈大喜,令軍健數百人具畚,與二將偕往其所。因發冢,
獲陳粟數十萬斛,人竟不之測。

滑州刺使の頃の賈の施策。
州内は大旱魃に見舞われた。このままでは秋の収穫は灰燼に帰す状況。
賈は、軍の指揮者でもあったため、2人の大将を召した。
 「今、とんでもない旱魃に襲われている。
  諸君2名を煩わすことになるが、3軍と百姓を救ってもらいたいのだ。」と。
大将達は、それに応え、
 「軍と州の利益になるというのでしたら、死んだところでいまいませぬ。」と。
賈は、笑って、頼む内容を語る。
 「恥かしいことかも知れぬが、十二分に足を使ってほしいのだ。
  実は、明日のことだが、2騎がやってくる。
   その馬には緋色の衣を着た人が乗っている。
   闊歩し鬣が長い馬である。
   市を経て、城域から外へと出て行く筈。
  諸君には、これを見つけ追跡して欲しいのだ。
   その姿が見えなくなったら、その場所を覚えてくれればよい。
   即ち、それが問題解決になるのだ。」と。
それに従い、
2人の将は、黒っぽい服を着て、糧食を持参し、尋ねて行った。
賈が言う通り、
市から外の野を200里余り追跡することになった。
そして、大きな墳墓で見失ったので、石を積んで目印標識とした。
信を経てから、とって返したところ、賈は大喜び。
早速、
軍の屈強な者数100名に命じて、畚を担がせ、
 くだんの二人の将に現地に行かせた。
そして、墳墓を掘らせた。
すると、粟を数10石を獲得することができたのである。
誰も、こうなるとは推測できなかった。


単なる墓暴きで、救済のカテを得たにすぎない。そこらは、仏教徒である成式も喝采を送るような行為。
しかし、ここで成式が指摘したかったのはソコではなく、賈耽の"知"が賞賛されたとの、最後の一行だろう。

中華帝国維持の決め手とは、理由はどうあれ、上のご意向に沿って動くこと。従って、ナニガナニヤラ状態で命令通りで動くことになる。その結果、良い結果がもたらされれば万々歳の世界。そして、"上"は、超能力を有する素晴らしき為政者として祭り上げられることになる。
肝心なのは、その裏にある論理。その超能力は博識から来ているとされるのである。だからこそ、術も使えるのだ、となる。
 
"會昌解頤"[@「太平廣記」 卷第八十三 異人三]という書でも、賈耽は博識なりということで、人々を感服させたとされている。
ただ、この場合は、異端者を「殺せ!」話ではなく、権力を支えてくれる富豪の病気診断。道教的な医術まで駆使できる能力がある為政者であることがウリ。
賈耽相公鎮滑台日,有部民家富於財,而父偶得疾,身體漸痩。糜粥不通,日飲鮮血半升而已。其家憂懼,乃多出金帛募善醫者,自兩京及山東諸道醫人,無不至者,雖接待豐厚,率皆以無效而旋。後有人自劍南來,診候旬日,亦不識其状,乃謂其子曰:「某之醫,家傳三世矣,凡見人之疾,則必究其源。今觀叟則惘然無知,豈某之藝未至,而叟天降之災乎?」然某聞府帥博學多能,蓋異人也。至於卜筮醫藥,罔不精妙,子能捐五十千乎?」其子曰:「何用?」曰:「將以遺御吏,候公之出,以車載叟於馬前,使見之,儻有言,則某得施其力矣。」子如其言,公果出行香,見之注視,將有言。為監軍使白事,不覺馬首已過。醫人遂辭去。其父後語子曰。吾之疾是必死之徴,今頗煩躁,若厭人語,爾可載吾城外有山水處置之,三日一來省吾。如死則葬之於彼。」其子不獲已,載去。得一盤石近池,置之,悲泣而歸。其父忽見一黄犬來池中,出沒數四,状如沐浴。既去,其水即香,叟渇欲飲,而氣喘力微,乃肘行而前,既飲,則覺四體稍輕,飲之不已,既能坐,子驚喜,乃復載歸家。則能飲食,不旬日而愈。他日,賈帥復出,至前所置車處,問曰:「前度病人在否,吏報今已平得。公曰:「人病固有不可識者。此人是蝨症,世間無藥可療,須得千年木梳燒灰服之,不然,即飲黄龍浴水,此外無可治也,不知何因而愈。」遣吏問之,叟具以對。
公曰:「此人天與其疾,而自致其藥,命矣夫。」
時人聞之,咸服公之博識,則醫工所謂異人者信矣。
(出《會昌解頤》)
  [太平廣記 卷第八十三 異人三]
賈耽が滑台で為政者をしていた時のこと。
ある富豪の父が難病を患ってしまい、色々やってみたが、不調一途。
賈耽も見立てたが、公務がありそれっきり。
そして、ついに来るべき時が来たということで、池に遺棄してくれと。すると、黄色の犬が現れ沐浴。水は香り、老人はそれを飲むことに。
すると思いがけなく治癒。
後日、賈耽はその老人について、千年木の櫛の灰を服用するか、黄龍の沐浴水を飲むしか、治癒の方法なしと語った。
その通りだったので、博識ぶりに皆感服。


(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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