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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.10.13 ■■■

流錢

"清水宛口傍,義興十二年"で始まる、なんの寓話か、はなはだ解釈が難しい作品がある。[卷十四 諾皋記上]

場所だが、南陽太守の話が続くから、南陽近辺で清水が流れている辺りと見るのが妥当だろう。・・・
  ---湍水出弘農界翼望山,水甚清徹,
   東南流逕南陽縣故城東,---

   [道元:「水經注」卷二十九 湍水]

時期を示すのが"義興"。ところが、こんな年号はみつからない。今村註によれば、東晋の義熙[405-418年]であると。しかし、成式がそんな間違いをするとはとうてい思えない。後世の写本担当者が勘違いで存在しない年号に書き改めることはさらに考えにくい。従って、なんらかの意味がありそう。今村与志雄はヒントを与えたくなかったのかも。

内容だが、"岸側有錢出如流沙"の話。
いかにも"南陽"という地を象徴するようなモチーフになっているとは言えそう。
そこら一帯は穀倉地域だからだ。陸から河川へと牛車がその富を運び、さらに船が都へと運ぶ訳で。従って、この地に、銭が川へと途切れなく流出しているとの言い草があっておかしくなかろう。
"南陽"は、周囲の覇者にとっては、是非にも支配下におきたい筈で、抗争の焦点になりがち。しかも、争奪合戦だけで収まる訳にはいかない。徴税が過ぎれば反乱必至だからだ。

但し、"銭流"がそのような意味につかわれていると言えるのかはなんとも。後世の詩で使われてはいるが。
 「次韵汪仲嘉尚書喜雨 其二」宋 范成大[1126-1193年]
  老身窮若不須憂,未有毫分慰此州。
  但得田間无嘆息,何須地上見銭流。


と言うことで、原文。・・・

清水宛口傍,義興十二年,
有兒群浴此水,忽然岸側有錢出如流沙,因竟取之。
手滿置地,隨復去,乃衣襟結之,然後各有所得。
流錢中有銅車,以銅牛牽之,行甚迅速。
諸童奔遂,掣得車一。

 清水宛口での伝承話。
 子供達が川で水遊びの最中。
 忽然として、岸の方から銭が流砂のように流れ出てきた。
 因って、皆、それを採取。
 掌に満杯になったので、それを地上に置くと、
  再び、流れてしまう。
 そこで、衣服の襟に結びつけることで、
  ようやくにして、銭を得ることができた。
 その流れ行く銭のなかに、銅車があった。
  銅牛が牽引しており、甚だしく迅速。
 子供達は、それを急いで追跡。
  1台を捕捉した。
,徑可五寸許。
豬鼻轂有六幅,通體青色,轂内黄鋭,状如常運。
於時沈敬守南陽,求得車
錢,行時貫草輒便停破,竟不知所終往。

 その車、直径5寸にして、軸受[轂/こしき]は豚鼻の形で6巾。
 全体は青色だが、轂の中は黄色で尖っていた。
 常時動いている状況。
 その頃、南陽
@河南の太守だった沈敬が求め、入手。
 銭が動いたら、草を貫入させると止まった。
 最終的には、行方知れずに。


尚、銅馬を検索したが、古代の出土品話だらけなので、他にどんな話があるのか調べていない。現代中華帝国の独裁者の経典が指摘している、農民蜂起話としての「銅馬」くらいは知りたかったのだが。[毛沢東:「中国革命と中国共産党」第一章 中国社会 第二節 古代の封建社会,1939年]
地主階級の農民にたいする残酷な経済的搾取と政治的抑圧のために、農民は地主階級の支配に反抗して、何度となく蜂起をおこなわざるをえなかった。秦代の---から、漢代の---、赤眉、銅馬、黄巾、隋代の---、唐代の---黄巣、宋代の---、元代の---明代の---をへて、清代の太平天国にいたるまでの大小あわせて数百回の蜂起は、みな農民の反抗運動であり、農民の革命戦争であった。中国の歴史にみられる農民蜂起と農民戦争の規模の大きいことは、世界の歴史にもまれなものである。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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