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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.10.20 ■■■

藏鉤ゲーム

藏鉤とは唐代の遊戯だそうだ。大流行りだったようだ。
言い伝えがどこかおかしいということで、成式はこの話を取り上げたのであるが、伝承がデッチアゲということではなく、正月の遊びにしているのは合点がいかぬということのようだ。・・・

舊言藏鉤起於鉤弋,
蓋依辛氏《三秦記》雲:
 “漢武鉤弋夫人手拳,時人效之,目為藏鉤也。”
《列子》雲:
 “瓦者巧,鉤者憚,黄金者昏。”
殷敬順敬訓曰:
 “同。
  衆人分曹,手藏物,探取之。
  又令藏鉤剩一人則來往於兩朋,謂之餓鴟。”
《風土記》曰:
 “藏鉤之戲,分二曹,以校勝負,
  若人則敵對,
  若奇則使一人為遊附,
  或屬上,或屬下曹,名為飛鳥。”
又今為此戲,必於正月。
據《風土記》,在臘祭後也。闡《藏鉤賦序》雲:
 “予以臘後,命中外以行鉤為戲矣。”
  [續集卷四 貶誤]
古くから言われていることだが、
"藏鉤"の起源は"鉤弋"だ、と。
おそらくは、依拠しているのは、辛氏の「三秦記」。
それによれば、
 「漢の武帝の鉤弋夫人は、手が拳状だった。
  当時の人はそれを模倣し、"藏鉤"と目した。」と。
「列子」では、
 「瓦を詮索する際は巧妙に。
  鉤を詮索する際は憚るように。
  黄金を詮索する際は鈍くなる。」と。
殷敬順のご教訓を見ると、
 「は同じ意味。
  
(鉤[句]と[區]が同じ音でもある。)
  集団を組に分け、手中に物を所蔵し、
  それを探索して取ることを指す。
  さらに、一人余らせ、"藏鉤"令とし、
  双方の組を往来させる。それを"餓鴟"と呼ぶ。」と。
「風土記」には、
 「"藏鉤"遊戯は、二組に分かれて勝負する。
  
(玉を幾つ握ったかを当てる遊びだろう。)
  人数が偶数だったら、相対して戦う。
  奇数の場合は、一人を遊附
[オミソ]に。
  あるいは、上の組か、下の組所属でもよい。
  "飛鳥"と呼ぶ。」と。
そうそう、現時点では、この遊戯は正月に行われている。
ところが、「風土記」を見ると、臘祭の後に行うと言うではないか。
最後に、闡の「藏鉤賦 序」を引いておこう。
 「吾輩は、臘日の後、内外の者どもに、"藏鉤"遊戯をするように、と命じた。」


漢の武帝の寵妃となった、拳夫人に係るとされる故事は以下のようなストーリー。・・・
上巡狩過河間,見有青紫氣自地屬天。望氣者以為其下有奇女,必天子之祥。求之,見一女子在空館中,姿貌殊絶,兩手一拳。上令開其手,數百人擘莫能開,上自披,手即申。由是得幸,為拳夫人。進為、,居鉤弋宮。解皇帝素女之術,大有寵,有身,十四月産昭帝。上曰:「堯十四月而生,鉤弋亦然。」  [班固:「漢武故事」]

その、趙[B.C.113年-B.C.88年]だが、後宮入りし、帝によって、初めて手が開いた。すると、そこに玉鈎があり、帝大喜びの図。
本来的には、2組に分かれて鉤を持っているかの当てっこゲーム。
ただ、寵妃と言っても、昭帝を産んでしまうと、処刑されるという悲惨な運命。

"臘"祭とは、もともとは"獵"獲物(生贄)を諸神や先祖霊に供えて祈る儀式。農産品の収穫を終え、狩猟に移り、獲物が得られたことを感謝するのであろう。それは、現業の人々の今年一年の仕事納めの節日でもある。
(官僚が工夫して、国家的行事に組み込むから、日程として、冬至後の狗の日にしたり、はたまた辰にしたりする訳だ。徐疫ということなら、大晦日の追儺と同じだと言いだす専門家もいただろうし、マ、時々のご都合で決まるだけ。どれでもよいのである。)
ともあれ、そんな日の遊戯としては、驅疫の語呂にも通じる、"藏鉤"の肌合いが合っていたのだろう。

ちなみに、臘日の話も収載されている。・・・

臘日,賜北門學士口脂、脂,盛以碧鏤牙筒。  [卷一 忠誌]
臘日に、北門學士は帝から、鏤牙の筒に入った口脂と脂を賜った。

象牙製の筒に入った動物油脂製のであろう。現代で言えばリップクリームと保湿用軟膏剤か。

臘日に行っていた遊戯を、年が明けてからの縁起モノに変えてしまうのは貶誤そのもの、というのが成式の意見。
中華帝国とは、一見、伝統を重んじているように見えるが、その実は、こんなものと指摘している訳である。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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