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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.11.11 ■■■

世俗評とは異なる魏収

「卷十二 語資」には、魏収[506-572年]の話が収録されている。

この人物は二十四史[「史記」〜「明史」]の1書「魏書」の著者。ところが、正書でありながら「穢史」と呼ばれているそうで、評判はかんばしくない。
20才代に入って洛陽に入る迄は辺境の地で生活していたようだから、雑音無しで、学に専念できたので文才を磨くことができたということか。
しかし、書斎人とは程遠い気性だったようで、"生性輕薄"とされているし、世間の評判といえば、もっぱら"驚蝶"[蝶々漁りの好色野郎]

そんな人にもかかわらず、成式は収録に踏み切ったのだから、結構、その才をかっていたのだろう。文芸史的に見ればピカ一だったのかも知れぬ。

それに、今村注記が指摘するように、子弟を戒めるための書を著したりと、好色とは思えない側面も。
三國典畧齊魏収以子姪少年誡諮拠「枕中篇」以訓之
  [太平御覽卷第六百一 文部十七]

ともあれ、人物イメージが世俗評とは大分違うのである。・・・

歴城縣魏明寺中有韓公碑,
太和中所造也。
魏公曾令人遍録州界石碑,
言此碑詞義最善,常藏一本於枕中,故家人名此枕為麒麟函。
韓公諱麒麟。

斉南の歴城県に魏明寺があるが、
そこに韓麒麟
[433-488年]公の碑があった。
477-499年頃に建造されたもの。
升城を陥落させた際に殺戮を諌めたり、
刺史の時には刑罰をできる限り避けたそうだ。
斉人にとっては、人々を救ってくれた大恩人であろう。
そんな、顕彰文が印されていたのであろうか。
史書編纂のための文書収集活動だろうが、

魏収は、州界にある石碑文を遍く記録させたと言われている。
その収集資料を眺め、素晴らしいということで、
韓公碑文を自分の枕の中に常に所蔵したと。
そこで、人々は、その枕のことを"麒麟函"と呼んだのである。
尚、麒麟とは諱名である。


魏収は長官に就任してからも、なかなかに面白い施策を行ったようである。・・・

舜祠東有大石,廣三丈許,
有鑿“不醉不歸”四字於其上。
公曰:
  “此非遺コ。”令鑿去之。

そりゃそうだ。
遺徳を書き留めるべき場所に、酔わずに帰ることなかれ、と書いてあるのだから。除去命令は至極妥当。

さて、魏収の官位だが、魏代には、散騎侍郎[皇帝身辺記録係]、修国史、中書待郎、轉秘書監。
それを継いだ斎代に入り、中書令兼著作郎、尚書右僕射、青州刺史。

色々と渡り歩いてきて、僕射兼務で青州刺史として、現地に赴任したのである。

地理的な知識が無いとわかりにくいので、先ず、その辺りをまとめておこう。・・・

渤海に注ぐ済水の上流側が済北で、済南に入るところが歴城。その近くに舜山がある。はるか南方には泰山。

済水より南側で渤海に注ぐ河川沿いにあるのが、青州中心地の東陽。地図上では、斉州歴城のずっと東に位置する。
代という地名は太行山脈山麓域のこととすれば、そこは恒州代郡。斉州歴城や青州東陽とはかなり離れており、相当に北。"始封代土"である。北の勢力の脅威を考えると、易守難攻の拠点と見てよさそう。
以下の話には、双七節がでてくるが、何故にその日に舜山かはわからないが、地方を収める長官として、代土と舜山を訪れて儀礼を行うことは当たり前の仕事だったと思われる。そんなエピソードが語られている。・・・

魏僕射收臨代,
七月七日登舜山,
徘徊顧眺,謂主簿崔曰:
 “吾所經多矣,至於山川沃壤,襟帶形勝,天下名州,不能過此。唯未審東陽何如?”
崔對曰:
 “青有古名,齊得舊號,二處山川,形勢相似,曾聽所論,不能逾越。”
公遂命筆為詩。於時新故之際,
司存缺然,求筆不得,乃以五伯杖畫堂北壁為詩曰:
  述職無風政,
  復路阻山河。
  還思麾蓋日,
  留謝此山阿。

---舜山に登ってのこと。
山頂辺りを周徊し、そこからの景色を十二分に眺めてから、
魏収は、主簿担当の崔に話しかけた。
 「吾輩は今迄様々な場所を見て来た。
  この地は、
  山川があって肥沃な土壌。
  山は襟のようで、河は帯のように流れている。
  その景勝さでは、天下の名州といえども上とは言い難い。
  但し、東陽だけは存知あげない。気になる。
  実際のところは、どうなのかネ。」と。
崔はすぐに返答。
 「青州は古くから名だたる所。
  齊州も同じように、古代に号されております。
  そんなこともありますから、
  両者ともども、山川の地勢は相似と言ってよいでしょう。
  その比較論を聴いたこともございますが、
  青州東陽が優越と論ずるのは無理がありましょう。」と。
それを聞いて、魏収は詩作のために筆を持ってくるように命じた。
しかれども、時あたかも、新旧の人事交代期。
官の手元には欠品が多く、筆を求めたが、得られず。
しかたがないので、五伯の杖を筆かわりに使って、
 お堂の北壁に詩を書き残した。
   職歴と成果を述べると言っても、
    政治に風を起こしたことなど無い。
   それなら、帰ろうかと思ったが、
    その道は山河に阻まれている。
   軍旗で指図した頃の日々を
    唯々、偲ぶことしかできぬ。
   そんな訳で、この山河の地に於いて、
    謝意を書き留めておきたい。


成式先生、多少は気になったのか、魏収の才能を独りよがりで認めているのではございませんから念のため、と。・・・

信曰:
 “我江南才士,今日亦無。
   :
  近得魏收數卷碑,制作富逸,特是高才也。”

[513-581年]の言うことには、・・・
 「吾輩、江南の地の才子を考えてみたのですが、
  今のところ、見当たりませんと言うしかなさそうです。
   :
  ところが、最近のこと。
  魏収の数巻に収めている碑文集を入手しまして、
  眺めてみたのですが、これが実に良くできているのですナ。
  富貴の風で秀逸と言える作品。
  この才能は飛びぬけており、まさに脱帽モノでした。」


(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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