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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.11.14 ■■■

雍公養生法

「酉陽雜俎」とは、著者自らが記載しているように、小説である。と言っても、正史や諸家の書籍と作り方が全く違うとも言い難い訳で、"作り込まれた""てんこ盛り"の御馳走ではないだけとの、皮肉と言えなくもない。

その題材としては、様々な場所で偶々耳にしたこととか、古今東西の書籍に記載されている情報や、体験談であり、想像のストーリーが入っている訳ではないが、ママではないことも多い。つまり、恣意的な編纂を行なうから、ご注意のほど、と初めからことわっているようなもの。

しかし、この本の特徴はそれに留まらない。

対象範囲の広さという点では、空前絶後と言ってよいだろう。
しかも、どうして、そのような分野の話を集めているのかは自明でないとくる。その上、それぞれの分野で博学的記述を目指すつもりもないのだ。だが、その割には、それぞれかなりの深堀り。

このような類書は聞いたことがない。

それを考えると、画期的な書であるのは間違いない。
だからこそ、焚書大好きな風土のなかで、インテリに愛され、書庫深くに残され続けて来たのだろう。
つまり、通常の漢籍では味わうことができない、至福の時間が得られる書でもあったのだ。ただ、その楽しみを得るには、自分の頭で考える必要があり、丸暗記とヒト真似が嬉しい人にはさっぱり面白くない本ということでもある。

その辺りを踏まえ、どんな読み方になるのか、少し触れておきたい。

取り上げるのは【雍公養生法】と題がつけられている逸文。30文字程度しかなく、ストーリー性は全く無いし、注記的な情報も全く付け加えていない。そのため、登場人物は固有名詞で示されているものの、後世の人間には、卿の身分であること以外はわからない。
しかし、かえって、それで十分とも言える。・・・

【雍公養生法】
雍公云
欲縮足
不欲左脇寢
毎夕濯足
已四十餘年
今年六十九
未嘗有病
  [「類説」卷四十二@欽定四庫全書]
雍公が云うことには、・・・

臥するに当たっては、足を縮めたくなる。
左脇を下にして寝たくもない。
毎日、夜になったら、足を洗う。
そんなことをしてきて
もう40数年が経った。

今年で、吾輩も69才になる。
未だ嘗て、病気にかかったことがない。


中華帝国は天子から始まり、下々まで、養生法の話が大好きである。
それを始めると、キリがないようである。

夜深,語及養生之術,---  [卷九 盜]

それはそれとし、この【雍公養生法】をどう読むかだ。
当然ながら、人それぞれ。

ただ、中華帝国での典型的読み方もある。(官僚制度が宗教や人々の思考方法にまで組み入れられている社会での風土的なもの。)
先ずは、読んだ瞬間、雍公が長寿を実現しているのだから、この方法は"よさげ"と見なす。情報ソースが上層部であるから、前提条件や、疑問を持つことはない。極めて短絡的。
但し、たいていは、他の同様例がないか探したりするもの。そして、それが見つかったら、これは素晴らしい方法との評価が下され、宗教勢力や官僚ネットワークを通じて拡宣される。すると、ほとんどの人がそれに倣って真似し始める訳である。

結局のところ、例えば、こんな風にまとまっていく。・・・
凡夜臥,濯足而臥,四肢無冷疾。  [「飲膳正要」卷一 飲膳正要 養生避忌]

お気付きになれるだろうか。
こんな対応になるのは、反科学的雰囲気が満ちた社会であることを。

いかにも、理屈がありそうな体裁だが、その実、逆であって、ドグマ的に決めたにすぎぬ。
この養生法にしても、水銀を飲むと長寿実現という説と本質的にはどこにも違いはないのであり、当たるも八卦以上ではない。

中華的体質と決めつけたが、もちろん、日本にもこのようなドグマ大好きの人は少なくない。ただ、反権力の進歩勢力を自称する人だらけな点がかなり異なる。(非科学の権化のようなお方であっても、ご本人は逆と思っているから厄介極まる。)

そんなこともあり、どこの国でも、科学的思考ができる環境作りは結構難しいもの。ただ、天子と官僚制度という構造が、民衆にこよなく愛されている社会では、それは原理的に不可能と考えてよかろう。
天子の情緒的意向が、官僚制度によって、精緻な屁理屈で装飾されるだけのことで、"理屈で議論"云々が無意味になってしまうからだ。つまり、社会の隅々まで、ドグマ優先であることが当たり前になるということ。

それを考えると、反科学的なドグマから脱する上で鍵を握るのは、洞察力と仮説の創出能力ということになろうか。
小生は、そこら辺りが「酉陽雑俎」執筆に当たっての出発点ではないかと見る。

言うまでもないが、ドグマ思考は頭を使う必要がないから、お気楽そのもの。少々の用語を暗記さえすれば、そのコミュニティの一員になれる。その気があれば、第一人者にも。膨大なお話を集め、緻密に整理を施せばよいのだから。(当然ながら、壮大なゴミと化す可能性もある。)

この考え方を、【雍公養生法】にあてはめると、解釈方法はいくらでもあるということ。それを狙って書かれているのだ。
従って、雍公の方策を是と見てもよいし、否ととらえることもできる。実際、人によってプラスにもなろうし、マイナスになろう、という結論はマトモ。
ドグマ論者から見れば、鵺的な態度に映るが、それこそが科学的な見方である。

例えば、ここで謂わんとするのは、「体位」と、「筋肉弛緩」の関係という風に問題をとらえる。・・・この設定こそが、洞察力発揮の第一歩。健康に影響を与える要因の僅か1つであり、他とどういう関係があるのかはとりあえず無視して考えようということ。現実に即している訳ではなく、理屈の世界での議論。

寝返りを打たねばならないのは、どこかの筋肉が体を支えているので、疲れてくることを意味すると考えることもできよう。
そうなると、意識的に、たまには担当筋肉を交代してあげるのは悪くなさそうとなろう。
もしも、足を延ばす筋肉が疲れていそうと考えるなら、足を縮める筋肉を使う時間を増やすのは良策。体の片側半身ばかり緊張していたなら、そちらを休める手も、健康に寄与するだろう。心臓の筋肉の負担を軽減するという観点で見れば、左半身を下にして寝るのはお勧めではないことになる。
足を洗うのも、清潔云々で眺めない訳で、筋肉をほぐして、緊張感を除くためのものと見る訳だ。そこまでする必要が無いなら、この養生方法にたいした意味はなかろうとなる。

得られる教訓はこんなところ。

たいしたご教訓ではないということ。それ以上に大きな影響を与えるものがどれだけあるのか、ここからは読めないからだ。
視野を広げないとなにもわからないということ。しかも、それが拡がると、今迄よかれと思っていたことが、不健康増進に繋がっていることが判明することさえある。

深く考えることは重要だが、広く見ておくことはもっと重要なのですゾということ。
もっとも、【雍公養生法】を読んだからといって、それに気付くことができるのかは、なんとも言えぬ。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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