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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.11.19 ■■■

エスニック伎樂

「ソグド商人」[→]では、もっぱら交易に着目してしまった。
ただ、一応は、白居易と元の「胡旋女」を引用しておいた。そこらの検討も必要かナということで。・・・

と言うのは、「胡旋舞」に関しては、「酉陽雜俎」では言及していないようだから。

そうだとすれば、いかにも成式らしい判断と言えるのではなかろうかと。

白楽天の「胡旋女」創作の趣意としては以下のような見方を広めることにあったと言ってよかろう。・・・
[1] 安禄山および楊貴妃は胡の踊りが得意。
[2] 玄宗はその舞の魅力に心を奪われた。
[3] その結果、国が乱れた。
[4] これは、胡人が仕掛けたのである。
[5] 胡の文化に惑わされると危ないゾ。

明らかに、恣意的な政治キャンペーン。
舞に熱中してしまい、政治をおろそかにした腐敗を、「胡」のせいにして、帝は悪くないとのゴマすりと見なしてもおかしくない内容。
問題をすり替えるとともに、国粋主義化を図ろうとの意図ミエミエ。

成式にしてみれば、誰もが魅力的に感じている西域舞踏を、政治的に問題視するなど、およそ馬鹿げており、そんな議論などしたくなかろう。

どうせ、そのような見方は、現実の流れで潰れていくに違いあるまいと考えていたと思う。
と言うか、長安では、演芸広場や酒楼で、当たり前のように、妓女が踊っていた筈である。

すでにエスニック趣味というより、長安の都市文化の一角を占めていたということ。中華伎樂は西域の伎樂に乗り越えられてしまったということでもある。中華の楽は、せいぜいが帝室内祭祀用でしかなくなりつつあったことを意味する。
「胡旋女」とは、それを予期した、劣等感の発露とも言えよう。

実際に、それがどのような踊りかは、段成式の息子の書で、だいたいの様子がつかめる。曲芸のようなもの。・・・

舞有骨鹿舞、胡旋舞,
於一小圓毬子上舞,
縱騰踏,兩足終不離於毬子上,其妙如此也。

 [段安節:「楽府雑録」俳優]

そもそも、舞は、外交儀礼上不可欠なもの。現代の国家演奏以上の意義があったのは間違いない。
特に、五胡十六国辺りは、普段の社交に伎樂が組み込まれている風土。ここらとの外交が重要になれば、それを取り込まない訳にはいかない。中華帝国の天子としては、民族や国家の表象たる夫々の伎樂を認知し、帝国傘下にあることを示す必要があるからだ。

隋煬帝代には、そのようなものとしての伎樂を7種から9種に増やしている。帝国の支配域が増えれば当然の流れと言えよう。伎との名称から見て、舞踏が中心だったと思われる。
始,開皇初定令,置七部樂:一日國伎,二日清商伎,三日高麗伎,四日天竺伎,五日安國伎,六日龜茲伎,七日文康伎[禮畢]。又雜有疏勒、扶南、康國、百濟、突厥、新羅、倭國等伎。  [「隋書」卷十五 志第八 音樂下]

唐代は随の國伎を西涼樂[甘粛地域]に、中原地域は燕樂とし、高昌楽を設定したりと、統合編成を進めて十部制に。特段、10という数字に拘ったのではなく、その他大勢が多すぎたというだけのことだろう。

「酉陽雜俎」では、7や10ではなく"九部樂"時代の話が引かれている。いかに、先進的な西域文化が重要視されたかが示されていると言えよう。・・・

崇義坊招福寺---
長安二年,内出等身金銅像一鋪,並九部樂。

慈恩寺,---
初,三藏自西域回,
詔太常卿江夏王道宗設九部樂,
迎經像入寺,彩車凡千余輛。

 [續集卷六 寺塔記下]

オリエンタリズムと言えば、普通は西洋の東洋に対する一種の憧憬と見なすことが多いが、唐代の中華帝国にも同様なオリエンタリズムがあったことがわかる。

それは、文化の十字路たる中央アジアオアシス都市国家で生まれた伎樂に対するコンプレックス意識に由来しているとも言えよう。
東西の帝国は、結局は、その文化を取り入れ真似するしか手がなかったのである。

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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