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■■■ 「酉陽雑俎」の面白さ 2016.12.5 ■■■

馬留

「記紀」という表現がお好きな人は、「酉陽雜俎」の歴史譚を読んでも、さっぱり面白味は感じないかも知れぬ。
面倒なので、これ以上の説明はしないが。

そんなことを、ふと思ったのは、以下の記述を見て。

馬伏波有余兵十家不返,居壽洽縣,
自相婚姻,有二百戸,
以其流寓,號馬留。衣食與華同。
山川移易,銅柱入海,以此民為識耳,亦曰馬留

  [卷四 境異]

ベトナム人と、中国古代史を知る人なら、なんの話かわかるが、小生のような浅学の身ではなんだかさっぱり。
時代背景の説明は不可欠である。・・・

馬伏波/馬援[B.C.14-49年]は62歳になっても、出陣を願い出た御仁。お年だからと言われ、まだまだ馬にも乗れますゾと誇示し、しかたなく帝が苦笑しながら許したという故事で知られている軍人。
41年に伏波将軍に任じられ、大軍勢を率いて交州へ。(旧趙氏南越國[B.C.207-B.C.111]。武帝期に漢の支配下に。)徴姉妹の反乱を制圧し、功封新息侯。
徹底討伐を旨としていたようで、中部ベトナムにまで侵攻。
現地に居残ったのが10家の200戸というだけの話だが、要するに、屯田型殖民政策を進めていたと、淡々と記載しているだけのこと。

つまり、ココは、古代中華帝国の侵略の実態が垣間見える短文ということ。もっとも、中華帝国である限り、古代も今もほとんど変わらないが。

そんなこともあり、ここに登場する、中華帝国の境を示す"銅柱"の話を創作と考える人達がいるようだ。発掘チャンスを検討するのではなく、政治的都合に合わせて解釈しようというこのような動きは少なくない。
何故にそのようになるかと言えば、「馬留」という名称の解釈を拡大する動きに抗するため。
殖民は「馬流族」と呼ばれてもおかしくない訳で、それが「馬留」となるのは自然な話だが、どうもこの名称を利用して「馬来」までその係累と見なそうと画策する人々もいるらしい。そのような勢力は、当然ながら"銅柱"までは中華帝国の地であると言いだす筈で。

マ、帝国官僚とはそのような発想で蠢いているから、驚くようなことでもないが。
しかし、成式にそのような意図があった訳があるまい。

尚、Hai Bà Trưng/徴姉妹はベトナムでは民族の英雄である。(独自文字を欠き、信頼に足る古い文献は中華帝国版しか無いだろうから、どのような経緯で英雄譚が形成されたのかは不詳と見た方がよかろう。尚、ハノイには祀った寺院がある。)

(参考邦訳) 段成式[今村与志雄 訳]:「酉陽雑俎」東洋文庫/平凡社 1980・・・訳と註のみで、原漢文は非掲載.

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